芦原温泉(あわらおんせん)の歴史秘話

温泉の歴史秘話

水上勉の小説『越前竹人形』の舞台となった温泉街と竹人形

 大正末年、越前・武生(たけふ)の山深い集落・竹神(たけかみ)で竹細工師として名をなした氏家喜左衛門は68歳で急死する。息子の喜助が跡を継ぐと、かつて喜左衛門に世話になったという玉枝という30歳前後の美しい女性が墓参りにやって来た。その後、玉枝のことが気になった喜助は芦原温泉を訪れる。温泉街の遊郭・三丁町の娼妓だった玉枝は病床に伏せ、傍らには喜左衛門が作り彼女に贈った見事な遊女の竹人形が飾られていた。
 喜左衛門は玉枝の馴染みの客で、竹人形は玉枝をモデルにして作られたもの。そして、玉枝の面影は喜助の母(喜左衛門の妻)によく似ていた。喜助は玉枝に思慕の念を抱いて求婚、夫婦となる。しかし、玉枝をあくまで“母”として慕う喜助は夫婦としての契りを拒み、父の作品を越えようと竹人形の制作にのみ没頭。その切ない関係が、後々の悲劇的な展開の遠因となっていく……。

 竹人形をめぐる男女の悲恋を描いた、水上勉の小説『越前竹人形』はベストセラーとなり、何度となく映画・テレビドラマ・舞台の題材になった。地元では竹人形を使った「竹人形文楽」が上演されることもあるという。儚い人生を送る女性と、その女性に関わってゆく男性との悲恋物語は水上文学の真骨頂。喜助と玉枝の再会の場となった芦原温泉の華やかな賑わいと、翳りのある2人の人生の対照が印象的に刻まれている。

 日本海に面した福井県、かつての越前・若狭には竹林が多く、寒く厳しい気候は良質の真竹や孟宗竹を生む。これを利用した竹細工(カゴやザル、茶せんなど)の工芸が昔から盛んで、当地で大工だった水上の父も副業で竹細工師をしていたという。水上は父の姿から『越前竹人形』を着想、喜助の父・喜左衛門のモデルは父親だったともいわれている。
しかし、もともと越前には竹細工の伝統はあっても、竹人形は存在していなかったのだという。ところが、作品が発表される少し前の昭和27年(1952)ごろから、芦原温泉の近くで竹人形の創作が始まる。従来の竹細工がだんだん生活用具として使われなくなることを見越した竹細工職人たちが、他に何かできないかと人形を創り始めたのだ。水上が実際に制作されている竹人形の存在を知ったのは、小説の『越前竹人形』を発表した後。その偶然に驚いたというが、小説が有名になるにつれ、竹細工から転じた「越前竹人形」もまた広く知られるようになっていった。

 現在、竹人形は福井名産の美術工芸品として親しまれている。竹という素材独特のやわらかい光沢や質感、浮かし彫りや竹を薄く剥いで反りをつける技術の精巧さは、まさに芸術そのもの。昔話の金太郎や仲睦まじい老夫婦の人形もあるが、やはり三味線を抱いた芸妓や愛らしいしぐさの童女など、女性をかたどった人形が美しい。
 温泉街に建つ公共浴場「セントピアあわら」には竹人形をモチーフにしたオブジェが飾られ、近くの坂井市(旧・丸岡町)には「越前竹人形の里」という竹人形と竹細工のテーマパークも。お土産に竹人形を買い求めていると、玉枝を髣髴させる芸妓さんや舞妓さんとすれ違うこともある。そぞろ歩けば、随所に見られる竹人形の姿に小説『越前竹人形』の世界が深く心に刻みつけられていく温泉街。喜助と玉枝の悲恋を今一度思い起こしながら、切なさに浸ってみるのもよいだろう。(文・/二木三介)

【人物紹介】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……・・・

■《水上勉(みずかみ つとむ)》[1919〜2004年]
小説家。現在の福井県おおい町で、5人兄弟の次男として生まれる。10歳で口減らしのため京都の禅寺へ修行に出されるが、寺での理不尽な生活に耐えられず出奔。様々な職業遍歴を経て、決して恵まれない生活の中で小説を書き続ける。昭和34年(1959)、『霧と影』で文壇に認められ、“水上文学”ともいうべき独自の作風を完成。代表作に『雁の寺』『五番町夕霧楼』『越前竹人形』『飢餓海峡』『はなれ瞽女おりん』など。
芦原温泉
竹人形の秀作、名作が展示される「越前竹人形の里」。工房も併設されている。
芦原温泉
福井を代表する美術工芸品となった越前竹人形。中でも女性をかたどった人形が美しい。
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