有馬温泉(ありまおんせん)の歴史秘話

温泉の歴史秘話

豊臣秀吉が愛した有馬温泉と発掘された「湯山御殿」

 「日本三古湯」として白浜温泉(和歌山)、道後温泉(愛媛)と並び称される有馬温泉。神代の昔、大己貴命(オオナムチノミコト)と少彦名命(スクナヒコナノミコト)の二神による開湯発見譚が『日本書紀』に記されており、すでに日本開闢の時点でその名が知られていたことがうかがえる。六甲山の北麓にたたずむ自然と風情の静謐さを携え、長らく日本の政治・文化の中枢にあった畿内(飛鳥・京都・大坂ほか)から近いこともあり、訪れた貴人、要人、文人墨客は数え切れない。
 その長い歴史の中では何度か衰退の危機に立たされたこともあったが、奈良時代の行基上人、平安末期の仁西上人と、そのたびに温泉の再興に尽力した人たちがいた。そして、この2人の高僧とならび「有馬三恩人」と讃えられているのが、安土桃山時代の天下人・豊臣秀吉である。

 秀吉は、主君・織田信長の存命当時から、信長の中国遠征にそなえて温泉を通る有馬街道の普請(工事)を始めており、以前から有馬に注目していたふしがある。秀吉自身が初めて有馬温泉を訪れたのは、天正10年(1583)。非業の死をとげた主君に代わって、天下統一事業の後継者としての地位を固めつつあった時期だ。秀吉は大火や戦乱の影響で衰退していた有馬温泉に手厚い保護と援助を行い、再興に努めた。歴史と伝統のある温泉を復興させることで、新しい天下人としての器量を見せつけようとしたのである。

 秀吉自身も豪華な別荘「湯山御殿」を建てさせ、亡くなるまでの15年間に実に9回にもおよび入湯に訪れている。苦楽を共にした正室・北政所(ねね)、淀殿や京極殿といった側室など家族を連れだっての“ねぎらいの湯”として、あるいは配下におさめた諸大名を招いての“もてなしの湯”として。それまで信仰や民間療法としての性格が強かった温泉での湯浴みに、秀吉は物見遊山の要素も加えていった。その意味でも、日本の温泉文化史上への貢献は大きい。

 一方で、秀吉の有馬行きは、天正15年(1587)の「北野大茶会」や最晩年の慶長3年(1598年)「醍醐の花見」などと同様、いかにも秀吉好みの大衆向けパフォーマンスでもあった。特に重要なのは、天正18年(1590)の入湯。秀吉は、有馬温泉の蘭若院阿弥陀堂で、千利休や津田宗及といった名高い茶人を引きつれて大茶会を挙行したのだ。この茶会は、まさに関東の支配者・小田原北条氏を倒して天下統一を達成した直後の凱旋イベント。自らの権威・権力を誇示する一大デモンストレーションでもあった。

 文禄5年(1596)7月には、畿内一円に「慶長伏見大地震」(同年10月に「慶長」と改元。震度6から7の「烈震」または「激震」)が発生。秀吉の居城・伏見城は倒壊し、有馬温泉も壊滅的な打撃を受ける。秀吉は、すぐさま有馬温泉の源泉の保全や河川工事など復興に着手。「湯山御殿」に代わる自身の新しい御殿の建設も命じたが、こちらは完成を見ぬままに慶長3年(1598)、病没した。

 それからおよそ400年。平成7年(1995)の「阪神・淡路大震災」で損壊した寺院「極楽寺」の庫裏(くり/寺の調理場)の下から安土桃山時代の遺跡が発見された。発掘調査の結果、この遺跡は秀吉が有馬での湯治に使った「湯山御殿」の浴室・庭園の跡であることが確認される。翌々年、神戸市の文化財・史跡に指定。平成11年(1999)には、この時の出土品を保存・公開し、秀吉が愛した有馬温泉の歴史と文化を紹介するための博物館「神戸市立太閤の湯殿館」がオープンした。
 この「太閤の湯殿館」では、復元された庭園や蒸風呂・岩風呂の遺構、出土した破片をもとに復元された龍の飾り瓦、茶器、軽石、碁石などを展示。これら展示品からうかがい知れる天下人・太閤秀吉の権勢、贅を尽くした湯殿、豪華な湯浴みと遊山の様子には、ただただ感嘆させられるばかりだ。

 秀吉によって2度救われた有馬温泉は、江戸時代の文化・文政(1804〜1829)の最盛期には「有馬千軒」と呼ばれるほどの繁栄を見せた。その後も、日本を代表する温泉としての風情や風格をたたえて君臨している。
 現在、温泉街では秀吉への尊敬と親しみをあちらこちらで感じることができる。六甲川を挟む形で、秀吉と正室ねねの銅像が向かい合わせで鎮座。「太閤橋」「ねね橋」「太閤通り」といった秀吉ゆかりの名前も見受けられる。また、秀吉の遺徳をしのび、古の茶会を模して毎年11月2〜3日に有馬大茶会を開催するなど、天下人愛用の温泉として殷賑をきわめた雰囲気を今に残している。(文・/二木三介)

【人物紹介】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……・・・

■《豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)》[1536〜1598年]
安土桃山時代の武将。尾張(愛知県)の足軽の子として生まれる。初名・木下藤吉郎。織田信長に仕えて頭角を現し「羽柴秀吉」と名乗る。天下統一を目論む主君・信長が「本能寺の変」で急死すると、仇敵・明智光秀を討って信長の後継者となり、四国・九州・関東・奥羽を次々と平定。ついに天下統一を成し遂げた。この間、関白・太政大臣に就任して、朝廷より「豊臣」の姓を授かる。1598年、伏見城にて病没。
有馬温泉
「太閤の湯殿館」に展示される「湯山御殿」の贅を尽くした湯殿の遺跡。
有馬温泉
秀吉の正室・ねねの像。温泉街の至る所で、秀吉ゆかりの地であることを実感できる。
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