飯坂温泉(いいざかおんせん)の歴史秘話

温泉の歴史秘話

義経、弁慶の足跡を追った松尾芭蕉の飯坂入湯

 鳴子や秋保とともに「奥州三名湯」に数えられ、2000年もの歴史を誇る飯坂温泉。元禄2年(1689年)に松尾芭蕉が奥の細道の道中に立ち寄ったことでもよく知られる。3月27日(陰暦)、弟子の河合曾良とともに江戸を立った芭蕉は、5月2日に飯坂へ到着し、温泉に浸かって一泊した。当時から良質な湯が湧き出ていたこの地で、さぞゆったりと旅の疲れを癒したと思いきや、実はそうでもなかったらしい。当時、まだ飯坂は温泉地としての形態が整っていなかったとも、藩令によってよそ者をもてなすことが禁じられていたとも伝わる。

 『おくのほそ道』によると「温泉に入った後、土間にムシロを敷いただけのあやしい貧家を借りた。灯火もないので、囲炉裏の火端に横になった。夜になると雷が鳴り出し、雨が降ってきて、寝ている上から雨漏りがする。おまけにノミや蚊に刺されて眠れない。持病さえ起こって死にそうなほど苦しい思いをした」とある。こんな散々な目に遭った芭蕉だが、翌朝は馬を借り、桑折(福島県伊達郡)の宿場まで出て「道中に苦難はつきもの」と気を取り直して旅を続けた。地元の伝承では、芭蕉は昔あった「滝の湯」の湯番小屋に泊まったとされている。摺上川沿いに建つ旅館『花水館』脇の石段を降りた川岸がその跡地で、今は碑が残されているのみだ。

 芭蕉たちが飯坂に立ち寄ったのは、その日の昼に源義経ゆかりの医王寺を訪ねたためでもある。医王寺は、温泉街から南へ2kmほどの所にある古寺で、平安〜鎌倉時代にこの地を治めていた豪族・佐藤氏の菩提寺でもある。源平合戦の際、当主の佐藤基治は息子の継信・忠信兄弟を源義経のもとに派遣し、忠実な側臣として戦場に付き従わせた。しかし、兄・継信は四国屋島の戦いで、弟・忠信は京都で奮戦の末討死を遂げる。その後、奥州平泉に向かう途中の義経と弁慶が医王寺に立ち寄り、太刀と笈(おい、リュックサックのような道具入れ)を捧げて佐藤兄弟を弔った。また、兄弟の奥方たちは、夫たちの甲冑を身に付けて彼らの凱旋を再現し、悲嘆に暮れる父母を慰めたという。

 継信・忠信兄弟をはじめとする佐藤一族の墓は、今も奥の薬師堂脇に立ち並ぶ。その古い墓石は、芭蕉が訪れた時と変わりはないだろう。墓を訪れ、佐藤兄弟の奮戦と奥方たちの気丈な振舞いを住職から聞いた芭蕉は涙し、また、この寺に義経の太刀と弁慶の笈が残されていると聞き、次の句を詠んでいる。

【笈も太刀も 五月にかざれ 紙幟】(おいもたちも さつきにかざれ かみのぼり)

この句には、「五月に入り、端午の節句も近い。弁慶の笈も義経の太刀も、帋幟とともに飾ってみてはどうだろう」との意味がある。当時、笈と太刀は本堂の奥にしまってあり、芭蕉はこれらを見ることができなかったともいう。だとすると、ちょっと残念そうな顔で句を詠む、芭蕉の姿を思い浮かべてしまうのは私だけだろうか。(文・写真/上野哲弥)

【人物紹介】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……・・・
■≪松尾芭蕉(まつお ばしょう)≫[1644〜1694年]
旅を俳諧にした漂泊の俳人。伊賀国出身。『奥の細道』の著者。津藩に仕えて俳諧をたしなみ、北村季吟の指導を受ける。30歳で江戸深川に出て、才を認められて談林派江戸宗匠となる。東北路への旅を皮切りに諸国を旅したが、九州を目指す旅行中、大坂で死去。俳号は、庵に芭蕉(バナナ)が植えられていたことにちなむ。

■≪源義経(みなもとの よしつね)≫[1159〜1189年]
平安時代末期の武将。源頼朝の異母弟。母は常盤。幼名・牛若丸。平治の乱で父・義朝が敗れた後、鞍馬寺へ送られる。16歳で寺を抜け出し、奥州の藤原秀衡を頼る。兄・頼朝の挙兵に応じて、富士川の陣に参じた。以後、一の谷、屋島、壇ノ浦で連勝し、平家を滅亡させる。のちに頼朝と対立し、奥州へ逃れるが、その命を受けた藤原泰衡に襲われて自害した。
飯坂温泉
医王寺の宝物殿に展示されている、弁慶の笈。義経の太刀は戦後、行方不明に。
飯坂温泉
芭蕉が入湯したといわれる「滝の湯」跡には、ゆかりの地の碑が立っている。
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