伊香保温泉(いかほおんせん)の歴史秘話

温泉の歴史秘話

戦国以来の石段街。徳冨蘆花、竹久夢二の思いが残るまち

榛名山の火山活動により、温泉が湧出したという伊香保温泉。その中心には有名な石段街があるが、これはもともと長篠の戦い(1575年)で敗れた武田勝頼が、傷ついた兵士を癒すために真田氏に命じて造らせたものといわれる。当時、共同浴場や旅籠は山中の源泉近くにあったが、武田方はより多くの戦傷者を収容するため湯宿を広い場所に移転させる。これが現在の石段街の原型となった。山上から湧き出す源泉を木製の導管で引き、たくさんの浴場に分湯する伊香保独自のシステムは「小間口制度」と呼ばれ、代々土豪たちに引き継がれてきた。『金太夫』『岸権旅館』など、戦国時代に創業した宿も今なお健在だが、街は度々火災に遭っており、建物自体は近代的なものが多い。

江戸時代以降は遊興保養地として栄え、明治から昭和初期にかけて夏目漱石、土屋文明、与謝野晶子など多くの文人墨客が訪れた。中でも、徳冨蘆花はこの温泉地をこよなく愛し、『不如帰』(ほととぎす)の舞台として登場させたことで知られる。蘆花が伊香保を初めて訪れたのは、明治31年5月。その頃に住んでいた逗子から高崎、渋川を経由し、鉄道・馬車・人力車で伊香保へ入ると、『千明仁泉亭』(現存)に2週間ほど滞在した。「湯良し、宿良し、眺望良し。私はすっかり伊香保に惚れた」と書いている。蘆花は「何かと云えば、私共の心はすぐ伊香保へ向かいます」と書き残しているとおり、以後、たびたび夫人を伴って伊香保を訪れた。宿は決まって知人に紹介してもらった縁で『千明仁泉亭』だった。

最後の訪問となったのは、昭和2年7月。自伝小説『富士』の執筆で疲労困憊し病床にあった蘆花は、伊香保行きを強く希望する。周囲の者は反対したが、ついに彼の決意に同意し、湯治を許可する。すでに歩くのも困難になっていた蘆花には、主治医、看護婦らが車2台を連ねて同行した。伊香保に到着すると病状はやや落ちつき、数日後には榛名湖を見たいといい、総勢31人の「大名行列」が行なわれた。宿では車椅子で入浴するなどして療養に努めたが、病状は次第に悪化。見舞いに来た兄・徳富蘇峰と15年ぶりに再会を果たした9月18日の夜、蘆花は息を引き取った。温泉街の石段下には『徳富蘆花記念文学館』があり、その隣には盧花が最期を迎えた『千明仁泉亭』の離れが移築され、公開されている。

もう1人、伊香保を愛した人物といえば画家・竹久夢二だろう。彼はある日、少女からの一通の手紙で伊香保温泉を知る。「夢二先生は伊香保にいらっしゃったことがおありでしょう。私は、お姿を見て声をおかけしたかったのですが気が引けて言えませんでした」。結局これは少女の思い込みに過ぎなかったのだが、夢二は手紙を喜び、少女へ丁寧に返書を送っている。夢二が初めて伊香保を訪れたのはそれから8年後の大正8年のこと。当時『宵待草』がヒットし、夢二の名は世に知られていた。それ以来、夢二は伊香保を大層気に入り、やがて榛名湖のほとりに住居兼アトリエを建て、そこを美術学校にしようと志す。しかし、思い半ばにして病に倒れ、この世を去った。アトリエは、当時の写真をもとに平成6年に湖畔に復元され、一般公開されている。

さまざまな文人から愛された伊香保温泉。文学史上でもその存在は重要である。(文・写真/上野哲弥)


【人物紹介】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……・・・
■≪徳富蘆花(とくとみ ろか)≫ [1868〜1927年]
小説家。本名は健次郎。横井小楠門下の俊英・徳富一敬の次男として熊本県水俣に生まれる。兄は思想家・ジャーナリストの徳富蘇峰(猪一郎)。キリスト教を知り、熊本バンドの1人として同志社英学校に学び、トルストイに傾倒。代表作『灰燼』『自然と人生』など。長年兄蘇峰と絶縁状態にあったが死の直前に和解。享年60歳。

■≪竹久夢二(たけひさ ゆめじ)≫ [1884〜1934年]
画家、詩人。本名は茂次郎。 岡山県生まれ。早稲田実業学校を中退。同年から新聞・雑誌などにさし絵や詩を寄稿する。美人画、木版画のほか楽譜や本のデザインも手がけ、日本のグラフィックデザイナーの先駆者として多く作品を残す。昭和9年富士見高原療養所で死去(50歳)。

■≪武田勝頼(たけだ かつより)≫ [1546〜1582年]
甲斐の武田信玄(晴信)四男として生まれる。母は諏訪頼重の娘。元服後に諏訪氏を称し、伊那郡高遠城主となる。父の死後家督を継ぎ、織田・徳川・北条氏に抗して奮戦する。しかし、長篠の戦いに敗れて美濃・三河進出に失敗。その後木曽義昌、穴山梅雪らの反逆に遭い、天目山に追い詰められて自害。


伊香保温泉
徳富蘆花が最期を迎えた宿を移築、展示した「記念会館」
伊香保温泉
武田勝頼が造らせたという石段街。与謝野晶子の詩が刻まれる
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