伊豆長岡温泉(いずながおかおんせん)の歴史秘話

温泉の歴史秘話

武者小路実篤が20年も通った名湯、名旅館

伊豆半島の玄関口に位置する伊豆長岡。中央部にそびえる源氏山をはさんで、東が源頼朝も訪れた歴史ある古奈温泉、西が明治36年に発見された長岡温泉街となっており、この2つが合わさって伊豆長岡温泉と呼ばれている。平安時代に伊豆へ流された宮人がこの地の景観を見て「京の長岡によく似ている」と喜び、命名したのが町名の起こりとか。温泉としては比較的新しい長岡だが、無色透明でクセのない優れた泉質は評判高く、幅広い客層で賑わっている。この温泉街の奥に位置する旅館『いづみ荘』は、初代の渡辺安左衛門が、ちょうど100年前に田畑から湧く元湯を発掘したことから創業した、長岡温泉発祥の宿である。

そして、この宿は文豪・武者小路実篤が愛し、昭和初期に20年間も通い続けて、一年の半分を過ごすなど、執筆活動の場として利用したことでも有名。戦前当時は屋号を『共栄館』といい、現在では幾度か改装されたため、建物の造りこそ違っているが、彼が利用した客室は『実篤の間』として残る。菊地寛賞を受けた『愛と死』もここで執筆された。当時のエピソードとして、作中で登場人物の夏子が死んでしまう場面を執筆した日はひどく哀しみ、「彼女のお墓参りをしたい」と言うので、宿の人が近所の寺へ案内したこともあった。また、館内の至るところには、野菜などをモチーフにした実篤の絵画が飾られている。なんでも、実篤の小説の愛読者だった近くの小学校の校長が、自分で作った野菜をプレゼントしたことが、実篤が絵筆を取るきっかけになったそうだ。

「実篤先生が初めていらしたのは、昭和元年のことでした。当時、先生は神経痛に悩んでおられましたが『長岡の湯に浸かると不思議に良くなる』と気に入ってくださったんです」と語るのは、『いづみ荘』の現会長であり先代女将の渡辺聖代さん(83歳)。実篤が訪れた当時小学生だった聖代さんは、一緒に入浴したこともあったという。「あの頃は宿に内湯がなく、すべて混浴の共同浴場でしたからね。先生は2つある湯船のうち、いつも決まって左側、入口に背中を向けて、ゆっくり時間をかけて入っておられました」。この実篤が好んだ湯こそ、前述の初代当主が掘り当てた『一号源泉』である。現在、長岡では他にあるいくつかの源泉を町で集中管理しているが、唯一『いづみ荘』は、敷地内のこの源泉だけを直接引湯し、実篤ゆかりの名湯を大切に守り続けているのである。

「神経痛のためか、爪先で少し跳ねるような感じで歩いていた先生のお姿が印象深いです」と聖代さんは話す。酒はあまり飲まず、食べ物で嫌いなものはトマトだけ。他は何でも喜んで食べたという。実篤は1人で来るときもあれば、安子夫人や3人の娘と一緒のこともあった。三女の辰子は、のちに伊豆長岡の思い出を「私にとってはパパの大切な仕事場であり、滞在先の共栄館から三人姉妹あてに来るハガキが楽しみだった」と振り返っている。昭和5年の北伊豆地震のときも共栄館にいた実篤は庭に逃れたが、靴が見つからなかったためにスリッパで帰京したという逸話もある。文豪の知られざるエピソードに彩られた伊豆長岡。彼の愛した風景や名湯を体感しに訪れるもまた一興だろう。(文・写真/上野哲弥)


【人物紹介】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……・・・
■≪武者小路実篤(むしゃこうじ さねあつ)≫ [1885〜1976年]
明治〜昭和期の小説家・劇作家・詩人。東京都出身。子爵の家柄に生まれ、名は本名である。作家活動専念のため東大を中退、文学研究会「十四日会」を結成。明治43年、志賀直哉らと『白樺』創刊、以来小説・詩・絵画と多方面に活躍した。主な作品に『愛慾』『友情』など。


伊豆長岡温泉
長岡温泉発祥の湯『一号湯』を昔のままにかけ流す
伊豆長岡温泉
文豪実篤が利用した『いづみ荘』の『実篤の間』は2階に残る
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