嬉野温泉(うれしのおんせん)の歴史秘話

温泉の歴史秘話

シーボルトをはじめ、多くの外国人が立ち寄った藩営浴場跡

嬉野の起こりは昔、神功皇后が三韓出兵の帰りに傷ついた兵士を入湯させ、傷が癒えたのを見て「あな、うれしの」と言ったことに由来するといわれている。神功皇后は実在の人物かどうか不明であり、これはあくまで伝説である。しかし、温泉の歴史が古いのは確かで、8世紀の文献『肥前風土記』に「塩田川岸、東の辺に湯の泉涌出して人の病を癒す」との記述がある。

戦国時代には、肥前佐賀の大名・龍造寺隆信が弟の長信に、嬉野へ傷の治療に行くように勧めている。「うれしのへ ゆくませられ候て 養生肝要に候」(多久家文書)。元亀元年(1570)頃の書状だが、嬉野の湯が将兵の傷療養に利用されていたことは間違いない。その後、龍造寺氏に代わって肥前を治めた佐賀初代藩主・鍋島勝茂は、子の直澄(蓮池藩主)に嬉野を与えた。嬉野には、当時すでに共同浴場があったが、以後『藩営浴場』として管理されることになった。現在の『古湯温泉』がそれである(上写真。平成16年6月現在、老朽化により閉鎖中)。

歴代藩主の中でも、4代鍋島吉茂はとくに温泉好きで、毎年のように入湯に訪れた記録がある。また、6代宗教の時代(1763年)には、小野原次郎平という男が浴場の改修を命ぜられている。設備が不自由なために客数が減ったことがその理由だったらしい。改修の甲斐あってか、天明8年(1788)頃には湯治客も増え、長崎に近いせいもあって外国人が多く訪れた。オランダ商館長の江戸参府に随行した幕臣の記録には「嬉野に着くや、オランダ人はこぞって湯見物に出かけた」とある。

文政9年(1826)、来日中だったシーボルトが、オランダ商館長の将軍謁見に随行。『江戸参府紀行』の中で、嬉野に立ち寄ったことを詳しく書いている。シーボルトが嬉野に到着したのは2月17日。有名な温泉であり、湯の色がきれいで透明なこと、臭いは弱いが硫黄を含んでいること、湯温が90度を超え、卵が数分で固くゆで上がったことなどを記述している。浴場については「大変質素な柿葺き2階建ての建物に、3つの広間がある。広間には全部で7つの浴室があって、それぞれに2つの浴槽が置かれている。浴槽の長さは6フィート(約183cm)、幅はその半分。普段はただ熱い湯が満たしてあるが、入浴客は自分の好きな温度にうめて入ることができる。浴場の入口には番人小屋や休憩室がある。1回5文〜10文と安いから、裕福でない人でも容易に利用できる」。シーボルトも入湯したようだが、学者らしく湯の感想よりも、客観的・科学的な記述が目立つのが面白い。

同行の絵師(川原慶賀)が湯屋の様子を描いており、その絵には小さな湯屋のそばに大きな楠木が描かれている。この木は大正11年(1922)の大火で焼失したが、燃え残った木片で薬師如来像を彫り、「お湯の神様」として薬師堂の中に置かれた。現在の大楠は2代目だが、静かな路地裏にあり、わずかに往時の面影を感じさせる(上写真)。

幕末のイギリス外交官で、日本公使となったオールコックも、文久元年(1861)6月1日に嬉野を訪れている。彼が目にしたのは、街路から丸見えで屋根だけがついた簡素な浴場だった。「我々が近づいたときに、中年の婦人が温泉の淵へ上がってきた。非常に多くの男女が、温泉の中で楽しんでいた。身にまとうものがなくても恥ずかしさを感じないとは、大いなる無知」と、当時の日本人の入浴習慣を目の当たりにして驚いた様子を書いている。

オランダ人宣教師・フルベッキは、「温泉を利用し、保養地しての設備を整え、大々的に宣伝して外国人まで呼び込めば、嬉野は今よりもっと発展するであろう」と言った。しかし、当時は鎖国の只中だったから、その声を理解できる者は少なかった。現在の温泉街の中心、嬉野商店街は坂本竜馬も通った旧・長崎街道である。しかし、有名な割に今では人通りも少なく、静かな町並みが広がる。老朽化、経営難で長らく閉鎖中だった公衆浴場は、ようやく町が買い取って再生を始めたが、嬉野が湯治客でにぎわった往時の光景を取り戻す日は来るのだろうか。(文・写真/上野哲弥)

【人物紹介】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……・・・
■≪龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)≫[1529〜1584年]
肥前の戦国大名。「肥前の熊」と称された巨漢。7歳で出家したが一族が少弐氏によって謀殺されると還俗し、家督を継ぐ。九州平定を狙う大友氏と対抗するが、敗れて筑後に逃れる。その後、義弟・鍋島直茂の活躍もあって肥前一国を支配する。1584年、沖田畷で島津家久軍と戦うが、家臣の有馬晴信が島津方に寝返って苦境に陥り討死。

■≪シーボルト(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト)≫[1796〜1866年]
ドイツ・ヴュルツブルク生まれ。長崎オランダ商館付医師・博物学者。1820年ヴュルツブルク大学卒業。出島付医師として来日し、1826年に商館長の江戸参府に同行。日本各地の歴史・地理・動植物などの資料を集めた。長崎郊外に鳴滝塾を開き、多くの門人に教えた。帰国後、日本紹介の本を多数著す。1862年に日本を去り、4年後にミュンヘンで死去。
嬉野温泉
古湯の脇に建つ薬師堂と、シーボルトの絵に描かれている大楠(大正11年に一度焼失)
嬉野温泉
藩営浴場だった古湯(平成16年6月現在閉鎖中)。隣は藩の湯番所だった飲食店・東屋
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