城崎温泉(きのさきおんせん)の歴史秘話

温泉の歴史秘話

志賀直哉が『城の崎にて』取り戻した心の平穏

 奈良時代・養老年間(717〜723)の開湯と歴史が古く、泉質も江戸時代には『海内第一泉(かいだいだいいちせん)』(日本第一の温泉)との定評が確立した城崎温泉。日本海に注ぐ円山川の支流・大溪川(おおたにがわ)の緩やかな流れ、川沿いの柳や桜並木、太鼓橋、瓦葺きの木造旅館が並ぶ様がしみじみとした趣の温泉街を作り出している。
 その風情に魅せられて、古くから多くの文人墨客が城崎を訪れ、感化されながら創作のひらめきを得てきた。現在、温泉街のあちこちに多くの作家の文学碑が建てられており、「城崎文芸館」も設けられているほど。中でも最も有名なのが、温泉の名を冠した心境小説『城の崎にて』をしたためた志賀直哉だろう。

 大正2年(1913)8月、志賀は東京芝浦に夕涼みに出かけた帰り、あろうことか山手線の電車に跳ね飛ばされて重傷を負う。同年10月18日、その後養生として訪れたのが城崎温泉だった。この時期の志賀は10年以上続く父との不和、創作に行き詰まりがちな悩みと孤独、後遺症として発症するかもしれなかった脊椎カリエス(脊椎の骨結核で凄まじい膿と痛みで死に至る病)への恐怖とが入り混じり、精神もまた不安定な情況にあったという。現実からいったん逃避して、心身あわせての休息を兼ねたのかもしれない。
 「湯治によく山々は緑で美しい、食膳には美味しい日本海の幸が並び、人々の心温かく木造作りの建物と調和している」と城崎を評した志賀。「まんだら湯」や「鴻の湯」などの外湯で湯浴みしたり、一人ぼんやりしたり散歩したり……と静かな生活を送り、3週間後、寄寓先の広島・尾道に戻ったという。

 つい昨日まで宿の軒下を飛び回っていた蜂が、ある朝、従容と死んで触覚をたれ下げて玄関の屋根の上で横たわっていた光景。外湯「一の湯」から上がって川沿いを歩いていたところ、首に魚串が刺さった鼠が川の中で現実に抗うようにもがき苦しみながら死んでゆく光景。側溝から頭を出した蠑巉(イモリ)を、志賀が悪戯半分に水の中に戻そうと小石を投げたら当たり所が悪く死んでしまった光景――。逗留したわずか数日の間に目の当たりにした3匹の小動物の死。特に石に当たって偶然に死んでしまったイモリと、電車に轢かれながら偶然に生存できた自分とを重ねながら、生と死とは両極ではなくそれほど差はないのだという深い境地に思い至るというのが、『城の崎にて』のあらましだ。

 しかし、小説『城の崎にて』は逗留後すぐに発表されたものではなく、彼の滞在から4年後の大正6年に発表された。奇しくもこの年は、長年志賀を悩ませていた父との不和が解消された年。その穏やかな心境が、『城の崎にて』によって表現されたとも言われている。まるで昨日のことのように表現された写実的な描写。心身ともにどん底の状態から立ち直るきっかけにもなった城崎での体験が、よほど印象づよいものだったことを物語る。定評のある志賀の簡潔で美しい文体による本作品を、じっくりと味わいながら読んでみるのもよい。

 残念ながら、城崎の温泉街一帯は大正14年の北但大震災で倒壊。今に残る志賀直哉ゆかりの宿と部屋は、震災後に泊まった部屋(宿泊も可能)で、彼がそぞろ歩きした際に一つの葉だけがヒラヒラとせわしく動いていた路傍の桑の木も2代目だとか。しかしその風景は、志賀が療養した昔から変わらない雰囲気をたたえたままだ。
 その中に身を浸したならば、文豪ならざる旅人でも何ごとかに感じ入り、澄みきった心境に達することができるかもしれない。(文・/二木三介)

【人物紹介】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……・・・
■≪志賀 直哉(しが なおや)≫ [1883〜1971年]
小説家。学習院から東京帝国大学へ進むが中退。明治43年(1910)、武者小路実篤らとともに文芸誌『白樺』を創刊、白樺派の中心となる。感覚の鋭さと自我意識の強さによって独自のリアリズム文学を樹立。また簡潔・明晰な文章は、多くの文学者が模倣した理想的な文体とされ、「小説の神様」とも称えられた。代表作に『城の崎にて』『和解』『大津順吉』『暗夜行路』など。
城崎温泉
城崎温泉街にある外湯の1つ「一の湯」。志賀直哉の小説『城の崎にて』にも登場する
城崎温泉
緩やかに流れる大溪川と柳並木、太鼓橋と木造旅館が並ぶ温泉街
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