下呂温泉(げろおんせん)の歴史秘話

温泉の歴史秘話

信長の入湯秘話と、昭和天皇・今上天皇ご宿泊の宿

信玄や秀吉と違い、温泉に関するエピソードがほとんどない織田信長だが、天正6年(1578)春に、湯治のために飛騨を訪れたという記録がある。岐阜県関市の羽渕家に伝わる『羽渕家家系図』に、「信長公岐阜より飛騨へ湯治の節、関郷を通られ当家で休憩。お供の前田利家、森長可、羽柴秀吉などのお歴々も同席され、当主の手前でお茶を差し上げたところご機嫌斜めならず…」と記されているのだ。この頃、飛騨をほぼ制覇し、信長と盟を結んでいた姉小路頼綱(三木自綱)は、佐々成政に協力して越中に進出、上杉勢と戦っている。この頼綱は宮地城(下呂町宮地)を根城にしていたため、信長が飛騨へ湯治に行ったとなれば、安全性から見て頼綱の統治下にある下呂温泉を訪れた可能性が高い。病気に無縁で、健康には無頓着だったとされる信長にしては、湯治のエピソードは珍しい。

この下呂温泉は、草津、有馬と並ぶ「日本三大名湯」に挙げられる(ちなみに「日本三古泉」は南紀白浜・有馬・道後)。その由来は、徳川家康以下4代の将軍に仕えた儒学者・林羅山が「我が国には多くの温泉があるが、最も著名なのが、有馬、草津、湯島(下呂)である。有馬、草津は広く世の知るところだが、湯島は古来の霊湯なことを知る者は少ない。だが入湯者はその験を得ざることなし」と書き残したことによる。実はそれより前に、室町時代の僧・万里集九が、詩文『梅花無尽蔵』に優れた温泉地として「草津、有馬、湯島(下呂)」の順で既に書き残しており、羅山はそれを引用したに過ぎない。有馬と草津の順序が入れ替わっているのは、羅山は有馬に入湯した際にその文を書いたからと思われる。残念ながら羅山が下呂を訪れた記録はない。

下呂温泉の源泉は、平安時代の中期、今の温泉街から4kmほど離れた湯ヶ峰山中で発見された。鎌倉時代に一度涸れてしまったが、飛騨川の河原から再び温泉が湧き出した。もし信長が下呂を訪れたなら、この源泉に入ったはずである。温泉街の中央を流れる飛騨川の両側には、現在も源泉が多数あり、町で集中管理し湯量、湯温を調整したうえで、旅館に配湯している。

下呂は、古くは下留(げる)といい、時を経て通称化され「げろ」と発音されるようになった。昔の呼名であった「湯島」は温泉街を見下ろす高台に「湯之島」という地名が今なお残る。そして、ここには『湯之島館』という旅館がある。昭和2年、創業者の岩田武七が温泉を掘り当て、町の要請を受けて旅館を建てたのが始まり。当時新鋭の建築家であった丹羽英二氏の設計により、木造和風建築と近代洋風建築を融合させた画期的な建物は、多分にモダンな風情を残し、山腹に佇んでいる。

『湯之島館』は、昭和33年秋に昭和天皇・皇太后陛下、昭和51年に今上天皇・皇后陛下が訪問、宿泊されたことでも有名である。支配人の田口吉三さん(68歳)は、昭和天皇ご来時の様子をこう語る。「当日は一般客はお断りとなり、玄関から館内に赤い絨毯が敷かれ、陛下は厳重な警護の中、部屋へお入りになりました。宿の従業員は直接応対したり、料理を部屋にお持ちすることはできず、すべて近習の方を通しての接待でした。料理では、ドジョウの煮付けが喜ばれたようです」。昭和51年の今上天皇ご来訪の際は、警護の人員こそ控え目だったものの、大体同じような対応だったという。天皇が宿泊された部屋は、今は一般客も利用可能だ。館内に飾られた、従業員一同が燕尾服姿で迎える当日の写真から、その緊張の様子が伝わってくる。(文・写真/上野哲弥)


【人物紹介】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……・・・
■≪林羅山(はやし らざん)≫ [1583〜1657年]
林家朱子学の祖。京都出身。建仁寺で禅学を修行し、藤原惺窩に師事。惺窩の推薦で徳川家康に仕え、以後4代にわたり将軍の侍講となった。古書の収集、出版に従事し、外交文書や諸法度の起草にも関わった。「日本三景」「日本三大名泉」などを選定した。

■≪織田信長(おだ のぶなが)≫ [1534〜1582年]
尾張国(愛知県)の守護代の家老織田信秀の子。父の死後家督をつぎ、桶狭間の戦いで今川義元を破る。尾張、美濃を平定後、1568年には足利義昭を擁して上洛。その後も浅井、朝倉、武田、松永、三好などの対抗勢力を次々と滅ぼして天下統一事業を進めたが、明智光秀の謀反によって自害。


下呂温泉
老舗旅館「湯之島館」内に飾られた昭和天皇ご訪問時の写真
下呂温泉
下呂を「日本三大名湯」に挙げた林羅山の像
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