塩原温泉(しおばらおんせん)の歴史秘話

温泉の歴史秘話

野口雨情、山岡荘八…多くの文人に愛された塩原の老舗宿

 箒川渓谷沿いに延びる塩原温泉郷は、平安時代の大同元年(806)に元湯が発見されて以来の歴史を持つ。全部で11に分けられた温泉郷には175もの源泉がある。戊辰戦争の折りに会津藩の一隊が脇本陣とした古町温泉の『上会津屋』、徳富蘇峰が風雅を愛でた塩の湯温泉の『明賀屋本館』、尾崎紅葉が「金色夜叉」を執筆した畑下温泉の『清琴楼』など名湯・名旅館も多く点在する。福渡温泉にはかつて大正天皇の御用邸があり、当時の人々は御用邸を目にすることも許されず、下を向いたまま急ぎ足でその場を通過したという逸話がある。現在は国立視力障害者センターとなり、御用邸の一部は『天皇の間記念公園』に移築され、自由に見学できるようになっている。

 その福渡温泉にある『和泉屋旅館』は、長谷川伸、横山大観、有島武郎ら多くの文人・画人らゆかりの宿として有名だ。創業は戦国時代の天文5年(1536)年というから、塩原温泉でも老舗中の老舗である。和泉屋の先代主人(14代)泉漾太郎は、宿の主人でありながら詩人・作詞家としても名を残し、平成8年に亡くなるまで多くの文人たちと交流した。大正10年、彼が中学生の頃、文芸コンクールに応募した童謡が一等に輝いた。その選者が童謡作家の野口雨情だったため、これが縁で漾太郎は雨情の弟子となり、雨情も度々『和泉屋旅館』を訪ねるようになる。

【誰れと別れか 福渡あたり 啼いて夜半ゆく 川千鳥】

 この詩は、雨情が和泉屋に泊まったときに生まれた。夜明け前、雨情は布団を並べて寝ていた漾太郎に尋ねる。「あの、河原で鳴いているのは何の鳥だろうね」。漾太郎は、知らないくせに眠気もあって、とっさに「川千鳥」と答えてしまう。そこで出来たのが上記の詩だが、気になった漾太郎が後日専門家に確認したところ「あれはアカショウビンで、川千鳥は塩原にいない」とわかり、早速詫びの手紙を書いた。しかし、雨情は「川千鳥は渡り鳥かも知れないから、塩原へ湯治に行くこともありましょう」と答えたという。ほほえましいエピソードに彩られたこの詩は、文学碑に刻まれて和泉屋の前に建っている。

 時は流れて昭和5年、漾太郎が東京に所用で出掛けた際、京王線の車中で画家・詩人の竹久夢二とばったり出会った。当時、講談社の雑誌に執筆していた漾太郎は、夢二とも親交があった。この遭遇に喜んだ夢二は、漾太郎を下高井戸のアトリエに招待し、制作中の作品を画き終えると「絵の具が余ったので何か絵を画いてやろう」という。漾太郎はびっくりしながらも遠慮なく「稲荷山がいい」と頼んだ。「欲張ったな」といいながらも、夢二はご機嫌で描いてくれたという。昭和24年、福渡地区の大火に和泉屋も巻きこまれ、建物や書画の大半は消失したが、このときの夢二の作品は、幸運にも知人に貸し出していたため、難を逃れ現存している(上写真)。

 もう1人、和泉屋を語る上で忘れてはならない文人がいる。作家・山岡荘八である。昭和15年、塩原温泉には国立の軍人療養所が開設された。和泉屋では、主人たちの計らいで療養中の兵隊を招き、大広間で昼食をふるまい、舞台で演芸を上演するという慰労サービスを行なっていた。漾太郎はある晩、小説執筆のために滞在していた山岡荘八に「明日、兄貴も慰問の挨拶をしてくれないか」と頼んだ。その頃、荘八と漾太郎はすでに義兄弟の契りを結ぶほど親しくなっており、荘八は快く引き受けた。しかし、「漾坊よ。上野駅の混雑は筆舌に尽くし難い。今夜は慰問隊の連中はとても来られまい」といった。当時、夜行列車は窓が乗降口となるほどの有様だったのである。

 慰問隊の代表は、講談師の宝井馬琴(ばきん)といい、月に一度東京から和泉屋を訪問していた。漾太郎は「きっと来る。馬琴は一度も約を違えたことはない」と取り合わない。「では、今夜は酒にも飯にも手をつけずに待つことにしよう。ただし1時までだ。俺は馬琴に会ったことはないが、もし本当に馬琴が到着したら、俺は彼の弟として礼を尽くそう」と荘八。1時に近くなった頃、馬琴一行は木炭車に揺られてやってきた。荘八は玄関に飛び出し、「よく来られた」の涙声とともに馬琴を迎えた。以来、3人は義兄弟となり、終生友情で結ばれる。まさに当時ならではの熱いエピソードだが、荘八は涙もろく、よく泣く男だった。畢生の大作「徳川家康」は和泉屋の『龍胆の間』(上写真)で書き始められたが、これを書く決意を漾太郎に語ったときも何度も落涙したという。

 現主人で漾太郎の息子である田代芳寛さんは「旅館は生きた美術館」と語る。和泉屋に展示された書画や、山岡荘八が執筆に籠城した部屋を眺めていると、それはまさに的を得た形容と感じられる。(文・写真/上野哲弥)

【人物紹介】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……・・・
■≪野口雨情(のぐち うじょう)≫[1882〜1945年]
茨城県生まれ。本名・野口英吉。東京専門学校中退。日本で最初の創作民謡集といわれる『枯草』を出し、北原白秋・西条八十とともに童謡の近代化に貢献。日本全国を旅して各地に民謡、また「赤い靴」「七つの子」「シャボン玉」などたくさんの童謡を残した。

■≪竹久夢二(たけひさ ゆめじ)≫[1884〜1934年]
画家、詩人。本名は茂次郎。 岡山県生まれ。早稲田実業学校を中退。同年から新聞・雑誌などにさし絵や詩を寄稿する。美人画、木版画のほか楽譜や本のデザインも手がけ、日本のグラフィックデザイナーの先駆者として多く作品を残す。昭和9年富士見高原療養所で死去(50歳)。

■≪山岡荘八(やまおか そうはち)≫[1907〜1978年]
本名・庄蔵。新潟県小出町(現・魚沼市)に生まれる。高等小学校を中退して上京。昭和13年、時代小説・約束がサンデー毎日大衆文学に入選、傾倒していた長谷川伸の新鷹会に加わる。第2次大戦中は従軍作家として活躍。戦後、大長編・徳川家康を17年もの長きにわたって執筆し、大ブームを呼ぶ。以後、歴史小説を中心に幅広く活動した。
塩原温泉
山岡荘八直筆の詩屏風。亡くなる半年ほど前に書かれた、かなり貴重なもの
塩原温泉
和泉屋旅館「竜胆の間」に飾られた、先代主人が竹久夢二から贈られた「稲荷山風景」画
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