渋温泉(しぶおんせん)の歴史秘話

温泉の歴史秘話

武田信玄が寄進した温泉寺と真田家ゆかりの宿

石畳の細い道沿いに、旅館と外湯が建ち並ぶ渋温泉。奈良時代の僧・行基によって発見されて以来、古くから草津に通じる峠の宿場町として栄えてきた。規模としては、端から端まで歩いて20分もかからない程のこぢんまりとした町並み。その外れに、ひっそりと佇むのが武田信玄ゆかりの『横湯山 温泉寺』だ。温泉寺は、病気療養などで訪れていた入湯者が、温泉地で亡くなった時に供養を行なうといった役割を主に果たしてきた。

嘉元3年(1305)、京都東福寺の虎関禅師が、巡錫の途上この地に寄って草庵を建てたのが『温泉寺』のはじまりという。当初はごく小さな建物に過ぎなかったが、戦国時代の天文23年(1554)に、佐久郡貞祥寺の住職により曹洞宗として中興される。そして永禄7年(1564)、この地を支配していた武田信玄が七十貫文を寺に寄進、安堵状を出して温泉地の発展を奨励した。また、川中島をはじめ信濃における合戦時には、傷ついた武田軍兵士の療養地として利用したという。このことから、『温泉寺』では信玄を開基とし、武田菱を寺紋に用いている。

現在も、温泉寺の境内には豊富な源泉が湧き続ける。その湯熱を利用して造られたのが『薬湯信玄かま風呂』(入湯330円)。境内地下にある石造りのドーム型蒸風呂で、横たわってじっくりと汗をかく「和式サウナ」と、薬湯をたたえた小さな浴槽が設置されている。この『かま風呂』自体は昭和59年(1984)に造られたものだが、京都の東福寺に残る寺湯(重要文化財)をモデルに再現してあり、古来の蒸風呂の雰囲気を体感できる。また、風呂の入口付近には武田信玄の像(上写真)や書状などが展示されており、歴史好きなら是非ともチェックしておきたいポイントだ。

江戸時代になると渋温泉のある信州松代には、真田信之が上田から移封され、以後は真田家の支配が幕末に至るまで続いた。そして、現在の温泉街にはその真田家ゆかりの宿が残る。創業280年の歴史を持つ、『つばたや旅館』である。天保14年(1843)、3代目主人が私財を投じて村一帯の治水工事を行なった。その功績に感嘆した時の藩主・真田幸貫がここに訪れ、本陣に指定したというのだ。木造3階の建物は明治初年に建て替えられたもので、面影は当時の写真と比べてもそのまま。かつては夏目漱石や若山牧水も訪れた。古い家屋が並ぶ渋温泉の中でも、とくに歴史の息吹を感じさせてくれる建物といえる。(文・写真/上野哲弥)


【人物紹介】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……・・・
■≪武田信玄(たけだ しんげん)≫ [1521〜1573年]
甲斐守護職・武田信虎の嫡男。彼の率いた騎馬軍団は天下無敵といわれ、諸大名を恐れさせた。また、甲斐、信濃、駿河をまたいだ領地は最大で100万石を超えた。上洛の途上、三方ヶ原の戦いにて徳川家康軍を一蹴するが、持病が悪化して死去。(53歳)

■≪真田信之(さなだ のぶゆき)≫ [1566〜1658年]
信濃の大名・真田昌幸の長男で、後に松代藩初代藩主。弟に、大坂夏の陣で奮戦後討死した真田幸村がいる。関ケ原の戦い後、父昌幸に代わって信州上田城を支配したが、元和8(1622)年に松代城(長野市松代町)に移り、以後明治まで続く松代藩の基礎をつくった。

■≪真田幸貫(さなだ ゆきつら)≫[1791〜1852年]
8代目松代藩主。松平定信の次男として生まれたが、幸専の婿養子に入り、8代藩主となる。幕府老中にも就任した。佐久間象山など優れた人材の養成に力を注ぎ、松代藩文武学校の建設に尽力した。


渋温泉
真田家ゆかりの宿のほか、古い家屋が数多く残る
渋温泉
「温泉寺」内には、信玄にまつわる史料が展示されている
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