下田温泉(しもだおんせん)の歴史秘話

温泉の歴史秘話

吉田松陰の無念と「唐人お吉」の悲劇を生んだ港町

安政元年(1853)に来航したペリーの蒸気船。翌年3月に結んだ日米和親条約によって即時開港された下田湾には、7隻もの巨大な船が入港。200年以上続いた鎖国がついに破られたのである。これより日本は「幕末」という時代を迎え、下田は初の「国際交流」の場として一躍脚光を浴びることになる。合計1265名もの船員を擁するペリー艦隊は、約3ヶ月間を下田で過ごした。ペリー提督は、わずか7人を随行させて上陸し、了仙寺で黒川嘉兵衛(浦賀奉行支配組頭)から、茶の接待を受ける。その後、日米和親条約第5条により、下田湾の犬走島から7里以内はどこへでも自由に行くことが許されたため、アメリカ水兵が下田の町を散策し始める。

下田の住民は、日本人らしい好奇心で彼らと接触を試み、物の売買や物々交換を行なったりと、さまざまな交流が行なわれた。ペリーもまた、下田の人々と争い事のないように水兵たちを厳しく戒めたので、大きなトラブルはなかったようである。ただ、当時の日本の公衆浴場は男女混浴が当たり前だったので、それを見たアメリカ人たちは「非道徳」と酷評している。ちなみに、昔から下田自体には源泉がなく、現在に至るまで北の蓮台寺温泉から引かれ、配湯されている。

幕末当時、下田と黒船にまつわる人物として真っ先に挙げられるのは、志士の吉田松陰だろう。松陰は、黒船に乗り込んでの渡米を企て、その計画を実行するために下田の岡村屋(現・下田屋旅館)に滞在。停泊中のペリー艦隊に近づくため、港に突き出た柿崎弁天島で一夜を過ごす。翌日に舟を漕ぎ出し、黒船まで辿り着くが、結局はペリーに断られてやむなく断念した。その時に松陰が潜んだ社殿が弁天島に現存し、自由に見学できる。その他、松陰にまつわる詳しいエピソードは『蓮台寺温泉』の頁に紹介しているのでご覧いただきたい。

のちに「唐人お吉」の名で知られる「斉藤きち」はこの時芸妓になったばかりの15歳。こうした賑わいを大勢の群集に混じり見ていたに違いない。お吉は、三河の舟大工の次女として生まれ、4歳のとき家族とともに下田に移り住んできた。14歳で芸妓(げいこ)となり、その美貌で評判となった。それが目にとまり、17歳の時に下田奉行所の伊差新次郎に口説かれる。法外な年俸と引き換えに「アメリカ総領事・ハリスのもとへ侍妾として奉公にあがるべし」と命じられたのである。当時、鶴松という恋人がいたお吉であったが、お上の威光には逆らえず、柿崎の玉泉寺(アメリカ総領事館)へ毎日通うこととなった。ハリスはこうした接待が気に入らなかったのか、日本の女に興味がなかったのか、お吉は3ヶ月で解雇されている。

その姿を見た心無い町民たちは嘲笑を浴びせ「唐人」と罵った。「唐人」とは中国人のことだけでなく、当時の人々にとってすべての外国人を蔑む意味で使われたようである。あるいは、大金を手にしたお吉への妬みであったのかもしれない。お吉は任を解かれた後、鶴松とともに暮らすが、ほどなく離別する。その後は身寄りもなく、ただ一人で小料理屋「安直楼」を開業するも2年後に廃業。そのうちに金も使い果たし貧困にあえぐ。

お吉は酒に溺れ、やがて病気にかかってしまう。天城峠を越えて吉奈温泉で湯治につとめたが、彼女を取り巻く状況に変わりはなかった。そして明治24年3月27日の豪雨の夜、蓮台寺の稲生沢川へ身を投げ、命を絶った。時にお吉51歳(49歳とも)。死骸は2日間野ざらしにされていたが、宝福寺の住職・竹岡大乗が境内に葬り、手厚く供養した。お吉が身を投げた場所は「お吉ヶ淵」と名付けられ、同情した後世の人々はこの事件を小説や舞台の題材として、長く語り伝えている。(文・写真/上野哲弥)


※唐人お吉にまつわる写真は「蓮台寺温泉・温泉写真館」の頁にも掲載されています。是非ご覧ください。

【人物紹介】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……・・・
■≪吉田松陰(よしだ しょういん)≫[1830〜1859年]
長門国・萩松本村で長州藩下級武士の子として生まれる。幼少より日本の伝統的学問を修め、後に洋学を学ぶ。佐久間象山に傾倒、幕末日本の情況を憂慮し、外国の事情を知ることが急務と考え、ロシア、アメリカへの密航を企図するも果たせず。しかし、門下から高杉晋作、伊藤博文、山県有朋ら明治維新に活躍する人物を多く輩出した。

■≪マシュー・ペリー(ましゅー・かるぶれいす・ぺりー)≫[1794〜1858年]
マサチューセッツ州ニューポートで海軍軍人クリストファー・レイモンドの3男として生まれる。1852年3月に東インド艦隊司令長官に就任。同年11月にバージニア州ノーフォークを出航、翌年7月浦賀に入港した。帰国して3年後の1858年3月4日、心臓発作によりニューヨークで死去。日本への遠征記では、日本人の勤勉さ、手先の器用さなどを高く評価している。

■≪タウンゼント・ハリス(たうんぜんと・はりす)≫[1804〜1878年]
アメリカの外交官。1856年に初代駐日総領事として下田の玉泉寺に着任、翌年下田条約を結んだ。その後、江戸に上って幕府に通商開始を迫り、日米修好通商条約の調印に成功。翌年には公使に昇格し、1862年に辞任し、帰国した。ニューヨークで死去。生涯独身であった。


下田温泉
吉田松陰が密航を企て、黒船に近づく前日に一晩を過ごした弁天島の社
下田温泉
ハリスの待妾となったお吉が、晩年に営んだ小料理屋「安直楼」
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