修善寺温泉(しゅぜんじおんせん)の歴史秘話

温泉の歴史秘話

入浴中に殺された源頼家の悲劇と母政子の情愛

町の中央を流れる桂川沿いに、20数軒の宿が点在する修善寺温泉。その湯を目的に、連日多くの人々が訪れるが、観光地や温泉街としての賑わいはさほど感じられない。むしろ町全体が史跡のような静かな風情を保っているのは、鎌倉時代に源氏興亡の悲劇の舞台とされた名残であろうか。その中心には、平安初期に弘法大師によって開基され、地名の起こりともなった『修禅寺』がある。この地はもともと「桂谷」といい、寺も『桂谷山寺』と呼ばれていた。鎌倉初期に寺名が『修禅寺』と改められると、地名も同様に呼ばれたが、室町後期に寺を修禅寺、温泉地を修善寺と区別して呼ぶようになったという。

温泉の発見者も弘法大師といわれる。大同2年(807)、大師は桂川畔で病父の体を洗う少年を見かけ、その孝心に心を打たれ「川の水では冷たかろう」と、仏具の独鈷(とっこ)で川中の岩を打ち、温泉を湧出させた。これが伊豆最古の源泉『独鈷の湯』で、以来温泉治療が広まったという。江戸中期には旅館を開業する農家が現れ、湯治場として知られ始める。明治初年になって、湯治客専用の内湯ができ、多くの文人墨客が訪れた。共同浴場として独鈷の湯、筥湯(はこゆ)、稚児の湯など9湯があったが、昭和20年代に自噴泉はほぼ枯渇してしまった。現在は各所から汲み上げられる源泉を、町内で集中管理している。

さて、この修善寺温泉が歴史の表舞台に大きく登場するのは、やはり鎌倉時代である。中でも源頼家が入浴中に暗殺されたという記録は印象深い。頼家は、父・頼朝の死後家督を継ぎ、正治元年(1199年)に鎌倉幕府2代将軍となった。しかし、武芸には長じていたが政には暗く、家臣らの専横を許す。その後、実権の回復に努めるべく、比企(ひき)能員と結んで北条氏を討とうとするが失敗。修禅寺に幽閉されてしまう。そして翌年の元久元年(1204)7月、修禅寺門前の虎溪橋際にあった筥湯(はこゆ)で北条時政の刺客に襲われ、殺された。この筥湯は、平成12年に立ち寄り湯として人工的に復元されている。

頼家の冥福を祈って、母の北条政子が修禅寺の向かいにある鹿山の麓に建てたのが、今も残る『指月殿』である。伊豆で最も古い木造建築物といわれ、政子が寄進した大蔵経も一部現存する。堂内中央には、右手に蓮の花を持った非常に珍しい形の「釈迦如来像」が安置されている。そして、境内には源頼家の墓がある。供養碑の陰に隠れるように立つ小さな五輪塔が墓であり、見る者に悲哀を感じさせる。また、頼家の叔父である源範頼も、兄・頼朝に疑われ、日枝神社(修禅寺のそばに現存)の下にあった信功院に幽閉され、自害を遂げている。範頼の墓は温泉街西北の山腹にある。

昭和59年、修禅寺の本尊・如来像の解体修復で発見された三束の黒髪が、O型かB型の女性のものと判明し話題となった。それは北条政子か頼家の妻・辻殿のどちらかの髪と推測されたが、結論のでないまま髪は元通り仏像に納められ、再び長い眠りについた…。鎌倉以来の悲哀と謎を数多く秘めた町、それが修善寺である。(文・写真/上野哲弥)


【人物紹介】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……・・・
■≪源頼家(みなもとの よりいえ)≫ [1182〜1204年]
鎌倉幕府2代将軍。頼朝の長男で、母は北条政子。父頼朝の死により家督を継いだが、粗暴な振舞いが多く、将軍就任後は家臣らによる合議制で独裁を抑えられた。重用していた比企氏とともに北条氏に対抗するが敗れ、将軍職を追われたうえ伊豆の修善寺に幽閉、翌年暗殺された(享年23歳)。

■≪源範頼(みなもとの のりより)≫ [?〜1193年]
平安末・鎌倉初期の武将で、源義朝の子。源頼朝の弟。遠江国蒲御厨(かまのみくりや)で生まれ蒲冠者(かばのかじゃ)と称された。兄頼朝の挙兵後に馳せ参じ、以後は弟・義経とともに平氏追討に活躍。頼朝から異心があると疑われ、弁明するも許されず伊豆修善寺に幽閉され殺された。人望は篤く、生存説も残る。

■≪北条政子(ほうじょう まさこ)≫ [1157〜1225年]
北条時政の娘で、源頼朝の妻。父・夫とともに源氏の復権をサポートし、頼朝が征夷大将軍になると「御台所」となった。頼朝の死後出家し、頼家や実朝の後見役でありながら弟・義時とともに幕府の実権を握り、北条執権体制を確立した。のちに対立した父・時政を伊豆へ追放。「尼将軍」と呼ばれた。


修善寺温泉
北条政子が建てた『指月殿』内の釈迦如来座像
修善寺温泉
『指月殿』の脇にある源頼家の墓と供養碑
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