土肥温泉(といおんせん)の歴史秘話

温泉の歴史秘話

旅の歌人、牧水が通算60日も愛用した宿

今では閉山しているが、江戸時代(1610年ごろ)の金山開発によって発展した土肥温泉。当時、安楽寺の裏山で金鉱を求めて採掘が行なわれていたとき、その岩間から湯が湧き出した。ちょうどこの頃、病に臥せっていた住職が湯を浴びてみると、すっかり元気を取り戻したという。このために金鉱の発掘は中止され、温泉は村人にも愛用されるようになり、【鉱湯】(まぶゆ)と名付けられた。これが土肥温泉の始まりと伝えられる。この【まぶ湯】は今も安楽寺境内にある金鉱の坑道、入り口付近から源泉が湧き出している(上写真)。入浴はできないが、洞窟内に湧き出す天然の湯は一見の価値がある。洞窟奥には女性自身を模った御神体がまつられている。(拝観料150円)

明治以降、土肥温泉は近隣の人々に名が知られ、多くの旅人が訪れた。とくに文人・墨客に好まれ、中でも若山牧水は通算で5回も長期滞在している。始めに訪れたのは大正7年正月で、その時は友人とともに2泊しただけで帰ったが、よほどに土肥温泉が気に入ったと見え、翌2月に再度一人で訪れて、ひと月も逗留したという。そして大正9年に自宅を東京から沼津に移した後、大正11年から13年までの毎年、いずれも1月から2月にかけて滞在し、多くの歌を詠んでいる。「静夜」「波と真昼と」「早春雑詠」「妻が許へ送る」「梅花五首」などは土肥で詠まれた作品。滞在中は時折喜志子夫人を呼び、一緒に散歩を楽しむ姿も見られたそうだ。

さて、その牧水が土肥を訪れた際に泊まる宿はいつも決まっていた。明治6年開業の老舗『牧水荘 土肥館』である。もちろん“牧水荘”と冠されたのは牧水が亡くなった後、昭和20年代に入ってからである。記録によれば、牧水はこの『土肥館』に大正11年から13年までの間に合計で64泊もしている。面白いことに当時の主人・野毛泰三氏(3代目当主)は酒好き同士牧水と意気投合し、タダ同然で泊めていたという噂も残っている。

「先行投資…でしょうか(笑)。当時は、ウチ以外ではあまり歓迎すべきお客さんではなかったようです」と専務の野毛貴登さん(5代目)は話す。なにしろ、当時の作家というものは「飲む打つ買う」の三拍子揃った遊び人が多かったが、牧水もまた例外ではなかった。「朝起きたときに、枕元に酒が無いと機嫌が悪くなった」という逸話もあるくらいだ。

牧水の部屋は、歌を書き損じた紙でいつも散らかっていたが、当時はそれを当り前のように処分してしまっていた。「今にして思えば、そうしたものは貴重な遺品になったかもしれませんね…」と貴登さんはこぼす。宿の敷地には牧水の歌碑が建ち、館内には遺品や書が展示されている。建物は幾度か改築しているため、牧水が訪れた頃とはかなり様変わりしている。

土肥温泉は6種の源泉を町で集中管理し、各旅館に配湯しているが、この『土肥館』の風呂は源泉かけ流しが強み。2代目の主人が源泉を掘り当てたという歴史的な背景があって、1分間に8斗もの湯が供給されているのだ。牧水が愛した土肥の湯を、肌で感じることのできる旅館と言って良い。(文・写真/上野哲弥)


【人物紹介】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……・・・
■≪若山牧水(わかやまぼくすい)≫ [1885〜1928年]
宮崎県生まれ。歌人。中学時代から創作活動を始め、早稲田大学文学科に入学、北原白秋、土岐善麿らと交友する。24歳の時に第一歌集「海の声」を発表。生涯旅、酒をこよなく愛し、それに関する短歌を中心に生涯で約8,700首を詠んだ。沼津の自然を愛し、晩年は沼津に住んで創作活動を続けた。享年43歳。


土肥温泉
『牧水荘 土肥館』に展示されている若山牧水の遺品
土肥温泉
安楽寺洞窟の入口に湧く『まぶ湯』は土肥温泉発祥の湯
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