かみのやま温泉(かみのやまおんせん)の歴史秘話

温泉の歴史秘話

沢庵和尚が愛した温泉地に、天皇家ゆかりの旅館あり

 上山と書いて「かみのやま」。山形の上手(かみて)に位置することから、昔は「上の山形」と呼ばれていたが、長いために縮めて「上山」になった。戦国時代に、この地の支配者・最上氏と争った伊達政宗は「かみのやま」と平仮名で書き、地元の歌人・斎藤茂吉は「上山、上の山、上ノ山」と3種類を使った。今では、平成4年の山形新幹線開通に合わせ、最寄駅の名が「上山駅」から「かみのやま温泉駅」と変わったことで、平仮名で表記されることが多い。読み間違いやすい地名だから、地元民もその表記については工夫してきたようである。

 江戸時代の寛永6年(1629年)、『たくあん漬け』を考案したことで知られる沢庵禅師が、紫衣事件のために幕府の怒りを買い、この地に流された。しかし、時の領主・土岐頼行は沢庵を厚遇し、草庵を寄進してこれに住まわせる。沢庵もここを気に入って『春雨庵』(上写真)と名付け、将軍家光に許されて京へ帰るまでの3年間を不自由なく過ごしたという。沢庵は、上山の温泉や自然をよほど気に入ったと見え、のちに江戸(品川)の東海寺境内に搭頭を建立し、その名も『春雨庵』と名付けている。

 その後、上山は良質な温泉でも世に知られ、会津の東山、庄内の湯野浜と並び、奥羽三楽郷のひとつに数えられる。そして昭和の時代、天皇が人間宣言後初めて訪れ、宿泊した温泉地となった。その宿は、大正13年に新湯地区で創業した『村尾旅館』である。同旅館は、創業者の村尾要助氏が当地で温泉を掘りあて、「ゆくゆくは天皇にも泊まっていただけるような質の高い宿に…」という思いで開業。素泊まりが普通だった当時としては画期的な1泊2食付きのスタイル、談話室や離れの特別室を設置したことが評判となり、近隣の公家たちが好んで訪れたという。

 昭和22年、昭和天皇は戦後復興の視察を目的に東北巡幸に出立。8月16日に上山を訪問し、『村尾旅館』に宿泊。もちろんその日は全館貸切となる。天皇は、初めて民間の宿に宿泊するために、畳で寝る練習をされたという。夜には歌人の斎藤茂吉、結城哀草果を招いての歓談のひとときが催された。夕食には陛下の好物である鰻の蒲焼、郷土料理の納豆汁や鯉、ナメコ、当時高級品だった桃の缶詰などが饗されたという。また、事前にマスクメロンをご所望と伝えられたが、当時の上山にはマスクメロンなど無いので、関係者が東京まで買いに走ったという逸話もある。

 天皇は、その後も昭和27年10月、昭和35年5月と3度も村尾旅館を訪れた。今上天皇も、皇太子時代から都合4度も宿泊されている。一番最近に訪問されたのは平成4年10月のこと。昭和の時代とは違い、また旅館側も慣れてきたのか、昔のような騒ぎはなかったという。陛下は常に他の客と同様のもてなしを望まれるらしいが、旅館側としてはそうもいかず、その都度部屋の細部の修築、模様替えを行なっているそうだ。そんな村尾旅館の離れ、さぞ高価かと思ってみると、一部屋4〜6万円ほどで宿泊できる。部屋の内装、日本庭園や廊下、談話室などが昭和初期のまま残り、訪れる人の心を和ませている。皇族はもちろん、多くの一般の人々にも愛され続け、歴史を刻む老舗旅館である。(文・写真/上野哲弥)

【人物紹介】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……・・・
■≪沢庵宗彭(たくあん そうほう)≫[1573〜1645年]
臨済宗の僧。寺院法度・紫衣法度をめぐって幕府に抗弁書を提出したことを咎められ、出羽に配流された。後に許されて京都へ帰るが、その後は三代将軍家光の相談役になり、江戸に出て品川東海寺を興した。書画・俳諧・茶にも精通。「たくあん漬け」にその名を残した。

■≪斎藤茂吉(さいとう もきち)≫[1882〜1953年]
医師・歌人。明治15年、上山市金瓶の農家守谷熊次郎の三男として生まれる。本名茂吉(しげよし)。アララギ派の歌人として、また医学、書画、文筆などに多彩な才能を表す。大成後も故郷の自然を生涯忘れず、多くの秀歌を残した。1951年(昭和26)には文化勲章を授与された。地元かみのやまには、斎藤茂吉記念館がある。
かみのやま温泉
たくあん漬の考案者として知られる沢庵禅師の坐像(春雨庵)
かみのやま温泉
老舗旅館「村尾旅館」内に展示された昭和天皇ご訪問時の写真
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