東山温泉(ひがしやまおんせん)の歴史秘話

温泉の歴史秘話

土方歳三が湯治をした浴場跡

東山温泉は1200年ほど前、僧侶の行基が発見したという、温泉地によくある伝説を持つが、歴史ファンにとっては、新選組副長・土方歳三が湯治に訪れたことで興味深い場所であろう。

慶応4年(1868)3月、下総流山で近藤勇と別れた土方歳三は、残った新選組隊士を率いて宇都宮での合戦に参加し、足を負傷してしまう。敗戦後は会津に向かい、4月下旬に若松城下へ到着。七日町の市街地にあった『清水屋旅館』(現在は大東銀行になっている)に投宿した。そこで医師の治療を受けるが、土方の足の傷は思いのほか深く、『天寧温泉』(現在の東山温泉)に通って療養につとめることとなった。

さて、その東山温泉には「土方が入ったとされる源泉地」が複数存在する。まず、現在の『旅館向瀧』の前身は【きつね湯】と称し、会津藩士の保養所だったという歴史を持つので、土方が藩の勧めによって、ここの敷地内で入湯した可能性がある。次に、これまた会津藩の共同湯があったとされる【瀧の湯】の場所には、現在『庄助の宿・瀧の湯』という旅館が建っている。『清水屋旅館』があった会津市街から東山温泉までは、徒歩で歩くとかなりの距離がある。足の傷のことを思えば、土方が訪れたのは市街地から最も近い位置にある【瀧の湯】だったとも考えられる。

東山温泉で最も古い3つの源泉(猿の湯、こがの湯、不動湯)を所有する『不動滝旅館』では、土方が入ったとされる【猿の湯】(上写真)を公開している。この湯は、昔は浴場として利用されていたが、設備上の理由から現在は使用せず、保存公開するだけに留めているという。手を入れてみるとややぬるく、源泉の温度は38度だそうだ。『不動滝旅館』専務の佐藤功武さんによれば、「幕末当時に浴場があったのはここだけ」という。明治初期の頃の写真や絵図を見せてもらうと、それらしい建物の存在が確認できるのは確かにここだけだ。さらに、土方は治癒後のリハビリに【猿の湯】の前にある川で泳いだというが、昭和初期の頃まで実際に河原に下りて泳いだり、洗濯をする人々の姿が多く見られたらしい。川の流れは明治時代からずっと変わっていないから、充分に信憑性のある話といえる。

ただ、この頃の土方に関する記録はほとんど残っていないので、はたしてどれが正しいのかは今ひとつハッキリしない。しかし、彼が東山温泉を訪れた事だけは確かである。土方は会津に滞在中、近藤勇が板橋で処刑されたことを知り、温泉近くの『天寧寺』に墓を建てた。一説によると、この墓には近藤の遺髪か首が納められたという。そして8月に戦線へ復帰すると、すぐに新選組へ合流して薩長軍と交戦、援軍を求めて米沢・庄内へ向かい、やがて函館へと落ち延びていった。以後、二度と会津に戻ることはなかったが、東山温泉で過ごした数ヶ月は、彼にとって貴重な安らぎの時であったに違いない。(文・写真/上野哲弥)


【人物紹介】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……・・・
■≪土方歳三(ひじかた としぞう)≫ [1835〜1869年]
幕末期の剣士。江戸丹波石田村(東京都日野市)に生まれる。文久3年(1863)、幕府の浪士隊結成に試衛館の仲間・近藤勇らと共に参加し上洛、【新選組】を組織して副長となった。鳥羽・伏見の戦い後も幕府軍劣勢の中、各地を転戦。箱館一本木の戦いで、官軍の銃撃を受けて戦死。享年35歳。

■≪近藤勇(こんどう いさみ)≫ [1834〜1868年]
武蔵国の農家に生まれ、天然理念流・近藤周助の養子となって道場を継いだ。1863年、幕府浪士隊に参加して上洛。京都守護職・会津藩の傭兵集団として京都の治安を維持するため【新選組】を組織し、局長となる。池田屋騒動などで勇名を馳せるが、幕府の衰退とともに追い詰められ、下総国流山で官軍に捕まって斬首された。享年35歳。


東山温泉
天寧寺にある近藤勇の墓。療養中の土方が建てたといわれる
東山温泉
土方歳三が入ったという「猿の湯」は現在も滾々と湧き続ける
温泉地の歴史秘話をご紹介します。あなたの情報もゆこゆこネットで掲載いたしますので、ぜひご投稿ください。 歴史秘話を投稿する