山鹿温泉(やまがおんせん)の歴史秘話

温泉の歴史秘話

宮本武蔵と赤穂浪士…時代を超えた武士の面影を残す町

平安末期、保元の乱(1156年)で敗れ、九州に身を寄せていた武将・宇野親治の入湯伝説に始まった山鹿温泉。地元豪族の菊池氏によって長く治められ、治承3年(1179)頃には湯屋が設けられたといわれる。室町・戦国時代を経て藩政時代になると、山鹿は豊前街道の宿場町として栄えた。寛永9年(1632)、熊本藩の加藤忠広(加藤清正の子)が改易となり、代わって小倉から細川忠利が熊本に移ってきた。忠利は小倉を発ち、南関を経て山鹿に一泊、翌日熊本城に入った。忠利は、山鹿の温泉をいたく気に入ったようで、晩年には自らの宿泊所や幕府の上使、賓客をもてなすための「御茶屋」を設けた。忠利はその新築祝いに意外な人物を招待した。かの剣豪・宮本武蔵である。

島原の乱に参戦した宮本武蔵は、投石によって足を負傷した後、江戸に逗留して療養につとめた。それから3年後の寛永17年(1640)7月、熊本を訪れた武蔵は、旧知の松井興長(細川藩・筆頭家老)に面会を申し出る。「用事があって熊本に逗留しておりますので、お目にかかりたいと存じます」との直筆書状が、八代の松井家にも伝わっている。時に武蔵57歳、食い扶持もないので暗に仕官を依頼したのだろうか。早速その翌月、松井興長から知らせを受けた藩主・細川忠利は、武蔵を客分としては破格な米300石の待遇で迎え入れ、千葉城跡に居宅を与えた。忠利は柳生宗矩に剣を習うほどの武芸好きで、武蔵の「二天一流」の技に驚嘆し、自らも門下となったという。

そんな事情があって、武蔵は10月23日に足利道鑑(13代将軍・義輝の落胤)とともに山鹿温泉に招待される。藩主用の御茶屋は、現在の共同浴場『さくら湯』を中心とした広大なものだったようである。この時に忠利が「武蔵を招待するので、使用人、馬、味噌、炭、薪に至るまで万事滞りなく準備せよ」と配下の奉行所に書き送った古文書が残っている。武蔵は賓客として厚遇され、11月の初め頃まで滞在した。一説には「風呂嫌い」で知られる武蔵だが、藩主を前にして不潔なままでいられるはずもないし、この時はのんびりと温泉を満喫したのではないだろうか。以後、武蔵が死ぬまでの5年間を熊本で過ごしたのは周知のとおりである。結構幸せな晩年だったかもしれない。

さて、山鹿温泉の近くには『日輪寺』という寺院がある。ここには、大石内蔵助はじめ赤穂浪士17名の遺髪塔がある。一見『忠臣蔵』と山鹿は関係ないように思えるが、こんな理由がある。元禄15年(1702)12月14日、四十七士は吉良邸へ討ち入り、主君の遺恨を晴らした後、細川家・松平家・毛利家・水野家へお預けとなった。江戸細川邸では、大石内蔵助を含む17名を、藩主の細川綱利自ら玄関に出迎え、「武士の鑑」と賞賛し、労った。切腹までの50日間、藩邸では浪士たちを上の間、次の間に分けて起居させ、二汁五菜の膳に酒、菓子まで出してもてなした。粗食に慣れていた浪士たちにとっては、一汁一菜でもご馳走であるから、料理を減らしてくれるように頼んだという話も残っている。

翌年2月4日、細川藩邸で切腹した浪士たちは泉岳寺に葬られたが、接待役を務めた堀内伝右衛門は、彼らの遺髪を特別に貰い受け、自らの知行地であった山鹿の『日輪寺』に遺髪塔を建てて供養した。また、堀内伝右衛門自身の墓もこの寺に現存する(上写真)。あるいは「わしの墓は、義士の遺髪塔の近くに建ててくれ」と遺言したのかもしれない。

宮本武蔵と赤穂浪士。時代こそ違えど、「真の武士」を手厚く迎えた熊本・細川家ゆかりの町、それが山鹿温泉である。(文・写真/上野哲弥)

【人物紹介】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……・・・
■≪宮本武蔵(みやもと むさし)≫[1584?〜1645年]
江戸時代初期の剣豪。二天一流(二刀流)の祖。生まれは美作とも播磨ともいわれる。13歳のとき新当流の有馬喜兵衛と決闘。以後、生涯に60回以上もの決闘をし、すべてに勝利したという。1612年、佐々木小次郎との巌流島の戦いは有名。関ヶ原の戦い、大坂の役、島原の乱などの合戦にも参加した。1640年、熊本藩に仕官。兵法や剣の思想を著した五輪書を残した。

■≪細川忠利(ほそかわ ただとし)≫[1586〜1641年]
細川忠興(三斎)の三男。母は明智光秀の娘、玉(ガラシャ)。加藤忠広の改易にともない、豊前小倉城から肥後54万石に移封された藩主。政治はもとより、連歌、書画、茶の湯、工芸に秀で、柳生新陰流や二階堂流平法を修得した剣の達人でもある。宮本武蔵を相談役として厚遇した。家臣の人望厚く、56歳で急逝した時19人の家臣が殉死した。

■≪堀内伝右衛門(ほりうち でんえもん)≫[1645〜1727年]
本名は勝重。肥後熊本藩士。父の代に細川家に仕え1666年、歩使番となり江戸定御供として細川綱利に従い、江戸詰となる。1702年、使番として伊勢代参。年末、吉良邸に討ち入った赤穂浪士17名を接待役として世話する。彼が赤穂浪士から伝え聞いた記録によって、吉良邸討入から切腹までの詳細な様子が後世に伝えられた。

山鹿温泉
赤穂浪士17人の接待役であり、彼らの遺髪を手厚く埋葬した堀内伝右衛門夫妻の墓
山鹿温泉
武蔵滞在の地・桜湯前に建つ宮本武蔵像
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