湯河原温泉(ゆがわらおんせん)の歴史秘話

温泉の歴史秘話

漱石、藤村、そして国木田独歩の“湯ヶ原ゆき”

 温泉と文学者との関わりは、意外と深い。都会の雑踏から離れた温泉地の静かな環境が執筆に適し、創造力を刺激。時には、作品の舞台も提供する。中でも、実に多くの作家との逸話を残すのが湯河原温泉だ。明治20年(1887)、東海道本線が横浜から国府津まで伸びて東京からの交通の便がよくなると、万葉集にも詠われた歴史の古さと泉質の良さ、山間の自然の素晴らしさとも相まって、文士御用達の温泉となったのである。

 例えば、夏目漱石。大正4年(1915)11月、友人で南満州鉄道総裁の中村是公の招きで湯河原の宿「天野屋旅館」に滞在した漱石は、持病のリウマチの治療もかねて、未完の絶筆となった『明暗』を執筆。作中では湯河原も舞台の一つとなり、「不動の滝」や「ルナ公園」といった実在の地名も登場している。

 あるいは、島崎藤村。幕末から明治維新の激動期を生きた自分の父をモデルにした長編小説『夜明け前』の執筆は、晩年の藤村にとって心身の消耗が非常に激しいものだった。そこで、昭和5年(1930)以降は、藤村の健康を気づかう夫人のすすめで年4回の入稿後の数日間、湯河原の「伊藤屋旅館」で静養することを恒例にしたという。現在、その「伊藤屋旅館」には藤村の墨書や詩碑が残されている。

 そんな数ある文豪の中でも一番早く、また何度かこのいで湯を訪れて作品に残し、湯河原をさらに有名にしたのが国木田独歩だ。

 明治34年(1901)、独歩は湯河原温泉の「中西屋」におよそ1ヶ月間逗留。その時の体験をもとに執筆されたのが『湯ヶ原より』。ひそかに思いを寄せる宿の女中「お絹」を慕って湯ヶ原(湯河原)に旅したものの、そのお絹が小田原に嫁ぐことを知り落胆する主人公・小山の悲恋をユーモラスなタッチで描いた短編だ。独歩が妻・治子に宛てた書簡を読むと、自身が滞在した「中西屋」にモデルとなった親切で愛嬌のある女中がいたことがうかがえる。しかし、本当のところ「お絹」とは、交際を反対されながら大恋愛の末に結ばれたものの、生活の貧窮から離婚のやむなきにいたった独歩の最初の妻・佐々城信子の投影ではないかという説が有力となっている。

 それから6年後の明治40年(1907)、独歩は数年前から患っていた結核の療養のために再び湯河原を訪れている。その時の紀行文が、『湯ヶ原ゆき』だ。
《湯ヶ原の溪谷に向つた時は、さながら雲深く分け入る思があつた。/獨歩》
 温泉街に建つ文学碑にも刻まれた最後の一節。持病の結核に加え、この湯河原行きの直前、独歩は出版事業者として「独歩社」を起ち上げながらうまく行かず破産していた。

 静養のために訪れたはずが、体温が常に38度以上の「熱ある病人」独歩が「咽喉疾には大敵と知りながら煙草を喫い初め」たり、訪ねてきた親友の田山花袋と「痛飮」(友人宛書簡より)したりと、この滞在が逆に死期を早めてしまったともいわれている。花袋との「痛飮」は自分の運命を悟った上で友への暇乞いを兼ねていたのだろうか……。翌年の明治41年、37歳でこの世を去った。

 日本の近代文学史に不朽の業績をあげながら、独歩の実人生は挫折の多いものだった。キリスト教の伝道者、教育者、実業家、新聞記者としてはいずれも失敗。さらに、最初の結婚も破綻する。最初の湯河原行きも、政界の実力者・星亨(ほし とおる)が主宰する『民声新報』の編集長を、星が暗殺されたため退職を余儀なくされ、その動揺を癒すためだったとも言われている。

 それでも独歩は亡くなる直前、これらはみな「有難かりし失敗よ。余にして若し此の失敗の恩寵〔おんちょう〕なかりせば、凡下拙劣の徒と為り了〔おわ〕って終に充す〔みたす〕を得ざる空想に駆使せられて徒〔いたずら〕に困憊〔こんぱい〕せんのみ」(『病牀録』)と回顧している。裏を返せば、彼はあくまで社会を“独歩”しようと積極的な生涯を送ったといえるのかもしれない。

 平成13年(2001)、温泉街にある「万葉公園」の中に、さまざまな効能を持つ9つの足湯を設けた日本最大級の足湯専用温泉施設がオープン。『独歩の湯』と名づけられた。湯河原の名を高めてくれた国木田独歩の恩に報いようとする、地元の人々の気持ちの表れといえる。(文・/二木三介)

【人物紹介】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……・・・

■《国木田独歩(くにきだ どっぽ)》[1871〜1908年]
明治時代の小説家。本名・哲夫。千葉県銚子生まれ。東京専門学校(後の早稲田大学)在学中から文芸誌に投稿を始める。日清戦争では友人・徳富蘇峰主宰の『国民新聞』の従軍記者として活躍。その後、詩作から小説に転じ『源叔父』で本格デビュー。初めは浪漫派の作風、後に写実的な自然主義文学に転じてその先駆となった。代表作に『武蔵野』『牛肉と馬鈴薯』『忘れえぬ人々』、没後に刊行された日記『欺かざるの記』など。
湯河原温泉
万葉公園内にある日本最大級の足湯専用温泉施設「独歩の湯」
湯河原温泉
湯河原ゆかりの文人たちの文学碑が並ぶ万葉公園内「文学の小径」
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