積翠寺温泉(せきすいじおんせん)の歴史秘話

温泉の歴史秘話

信玄生誕の地「要害山」に湧き続ける霊泉

戦国時代、最強の騎馬軍団を率いた甲斐の大名・武田信玄。甲府周辺には信玄ゆかりの名所旧跡が多く残り、その威名はなお根強い。甲府駅の北口から徒歩で20分ほど坂を上ると、武田氏三代の居館跡として有名な武田神社に出る。その背後にそびえるのは標高780mの要害山。信玄の父・武田信虎が有事に館を守るために築いた城の遺構が、今も山中に残されている(写真左)。そして、この山麓にひっそりと建つのが、信玄の生誕地といわれる積翠寺である。

積翠寺は奈良時代に行基が開山、のちに夢窓国師の弟子・竺峰(じくほう)が中興した。境内に泉が湧き出ていていたことから、もとは「石水寺」といったが、中世になって「積翠寺」の字が使われるようになったという。大永元年(1521)、駿河の今川軍が甲斐に侵攻したとき(飯田河原の合戦)、武田信虎は夫人たちを要害山へ避難させた。身重だった大井夫人は山上までは登れず、途中の積翠寺で男児(後の信玄)を出産した。境内にはこのとき産湯を汲んだ井戸が現在も残っている(写真右)。今では水も少なくなっているが、深さ5メートルにも及ぶという。また、この寺には天文15年(1546)、信玄が26歳のときに後奈良天皇の勅使として下向した京の公家や、東光寺、法泉寺などの住職を迎え、和漢連句会を催したときの記録が、寺宝として保存されている(非公開)。

 甲府市街から要害山に向かう途中には、2軒の宿がある。積翠寺を通過すると要害山城跡への登山口に辿り着くが、その脇にあるのが『要害』。そして、積翠寺の手前で左へ折れ、さらに登った所にあるのが『古湯坊』である。それぞれ、要害山の山肌から湧き出る自家冷泉を所有し、いずれも歴史ある老舗だが、とりわけ『古湯坊』の歴史は鎌倉時代まで遡る。積翠寺を拠点に布教活動をしていた修験者・養曽坊が、現『古湯坊』在地で山肌に湧く鉱泉を発見し、入浴したのが始まりという。その後、「養曽沢」と命名されたこの地には、多くの修験者たちが訪れた。とくに傷病に効くこの泉は、行者たちの間に広く伝わり、やがて宿坊が建てられるに至った。

その後、この地を支配するようになった武田家も、修験者や領民の間で霊湯として伝えられてきた養曽沢の鉱泉を手厚く保護した。泉温は18〜20℃しかないため、当時は焚き火にあたりながら、源泉の湧き出る洞に入る「炙り湯」という入浴法が用いられた。信玄もまた、この方法で浴していたという。その洞は『古湯坊』の裏山に現存し、今では浴しやすいように40度近くまで加熱して利用されている。武田家滅亡後は、寛永年間(1630年頃)に都を追われて甲斐の国に流された、御陽成(ごようせい)天皇の第8皇子・良純親王が度々入浴。また、宝永元年(1704)に甲府の領主となった、柳沢吉保(将軍・徳川綱吉の側近)がこの泉を好んだことなどが歴史上に記されている。

『古湯坊』が旅館として営業を始めたのは明治元年のこと。それから5代、木造の建物を増改築して切り盛りしてきたが、老朽化や天災の影響もあって、平成9年に全面改装され、近代的な宿に生まれ変わった。しかし、鉱泉は鎌倉時代から800年もの間、保坂與五兵衛(よごべえ)を名乗った代々の湯坊主によって守り継がれ、現当主・保坂実氏で18代目にあたる。武田信玄ゆかりの温泉は各地にあるが、信玄生誕の地に今も変わらず湧き続ける積翠寺温泉の存在は意義深い。(文・写真/上野哲弥)

【人物紹介】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……・・・
■≪武田信玄(たけだしんげん)≫[1521〜1573年]
甲斐守護職・武田信虎の嫡男。彼の率いた騎馬軍団は天下無敵といわれ、諸大名を恐れさせた。また、甲斐、信濃、駿河をまたいだ領地は最大で100万石を超えた。上洛の途上、三方ヶ原の戦いにて徳川家康軍を一蹴するが、持病が悪化して死去(53歳)。
積翠寺温泉
要害山上の城跡に建つ「武田信玄誕生之碑」
積翠寺温泉
今も積翠寺に残る、信玄産湯の井戸
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