男鹿温泉(おがおんせん)の歴史秘話

温泉の歴史秘話

幸田露伴、田山花袋が訪ね歩いた峻険の温泉地

 男鹿半島はその昔、日本海に浮かぶ火山島だった。それが長い間の隆起と川が運ぶ流砂によって、本州と陸続きになったといわれる。三方を海に囲まれ、天然の良港があるため漁業で栄えた。江戸時代には、男鹿で獲れるハタハタやニシンが秋田藩主の佐竹氏に献上され喜ばれたという記録もある。日本海の荒波、変化に富んだ断崖などの景観に臨む半島の至る所には、江戸時代の紀行家・菅江真澄の記した文や歌の碑が建つ。日本各地を旅した真澄は、病没するまでの28年間を秋田で過ごしたが、中でも男鹿の景勝をこよなく愛し、都合3度も訪れて「男鹿五風」(旅日誌)を残した。

 半島の北岸に広がるのが、豊富な湯量を誇る男鹿温泉郷である。大同年間(806年頃)に坂上田村麻呂が東征の折に発見したとされる湯本温泉や石山温泉があり、江戸時代には湯治場として名が知られるようになった。前述の藩主・佐竹氏や菅江真澄も入湯したといわれる。明治に入ると一般の旅行客も多く訪れるようになったが、絶景の地だけに起伏が激しく、交通の便の悪いことでも有名だった。明治35年頃のある旅行者は、男鹿を訪れたときの様子をこう記している。「秋田市より14里、船越まで7里は人力車が利くが、国道と違って車賃は割合に高い。船越から先は乗馬で7里だが、道は甚だ悪く、大いに不便を感ずる。できるなら少し道路の修繕を加え、時間を定めて馬車の2、3台も往復させれば、繁昌を招くことができるだろう」。

 文豪・幸田露伴は明治30年10月、大橋乙羽とともに馬で湯本(男鹿温泉)を訪れ、暢神館という宿(明治後期に焼失)に泊まっている。しかし、東北旅行の途中に期待して立ち寄ったはずが散々な目に遭ったようである。露伴の紀行文によれば、「湯本までの道中、ある村で馬を換え、昼食をとろうとしたが、付近には怪しげに黒光りする粗末な家屋しかない。ようやく探した飯屋で昼食を頼んだが、飯は冷たく、汁も魚も菜もない。仕方なく自ら囲炉裏に鍋をかけ、鶏卵の雑炊を作った」。

 暢神館は海に近い寂しい村にある、浴客というほどの客もない小さな温泉宿だったという。「夜の9時ごろ到着したが、怪しまれて雨の中を入口でしばらく待たされた。風呂場の浴槽は大きかったが、ようやく入った湯は水のように冷たかった。湯上がりに酒を頼んだが、酸のような酒はあるが清酒はない。仕方なく、その夜は茶漬け飯を食って床に入った…」。しかし、露伴はそれから9年後、新聞記者の前で男鹿を歩いたときの思い出をこう語っている。「羽後国の男鹿島は、なかなか素晴らしい景色でした。あんな風景が、もし東京付近にでもあれば、海上に舟の山を築くこと疑いなしでしょう」(避暑旅行談)。

 明治38年には田山花袋も男鹿を訪れている。かねてより男鹿の景勝に憧れ、ようやくその日を迎えた花袋は汽車で能代を発つが、あいにくの大雨に降られる。それでも彼は追分駅で人力車に乗り換え、金川(現在の男鹿駅前)の諸井旅館に辿り着いた。「明日になれば晴れるだろう」とビールをあおって眠りについた。ところが翌朝も雨。「腹ただしきこと限りなし。これも縁なき故か」と諦めて秋田へ戻ったという。

 「縁なき故か」と言ったのは、花袋が明治27年秋にも男鹿を旅しようとして果たせなかったためである。この時は秋田の手前、上淀川で足を痛めてしまい断念した。2度にわたる無念を、花袋はこう記している。「真に男鹿半島の勝を探ろうと思うならば、5月か6月の頃、10日以上をその半島の中に費やす覚悟がなければ駄目である。私もその時期を計って行ったが、連日の雨で遂にその目的を達することが出来ずに引き返した。よほど運が良くないと男鹿の絶景は究められない」。…現在の男鹿半島には電車もバスも通っているが、先人たちのこうした労苦を思いながら旅に臨めば、また違った楽しみ方もできるに違いない。(文・写真/上野哲弥)

【人物紹介】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……・・・
■≪菅江真澄(すがえ ますみ)≫[1754?〜1829年]
江戸後期の紀行家・随筆家。本名は白井英二。 1810年(文化7)に菅江真澄と称した。三河国(愛知県豊橋市付近)に生まれ、国学・本草学を学んだ後、1783年(天明3)から帰らぬ旅に出る。信濃・越後・出羽・津軽・蝦夷を旅し、1811年から秋田の久保田城下に住んだ。藩主・佐竹義和の依頼で地誌を編纂、旅日記「真澄遊覧記」70冊余を残した。

■≪幸田露伴(こうだ ろはん)≫[1867〜1947年]
小説家・随筆家。江戸下谷三枚橋横町に生まれる。本名・成行。18歳の時に北海道余市の電信局に赴任するが、文学を志すため帰京。その時のことを『突貫紀行』で綴る。読売新聞社の客員となり、『風流仏』を刊行。尾崎紅葉の硯友社と並立して、文壇を二分するほどの地位を得た。『五重塔』『蒲生氏郷』など数々の作品がある。

■≪田山花袋(たやま かたい)≫[1871〜1930年]
小説家。群馬県館林生まれ。本名は録弥(ろくや)。上京し、21歳のとき尾崎紅葉に師事し小説家を志す。国木田独歩、柳田国男、太田玉茗らと共に詩集『抒情詩』を刊行。人間の醜さや欲望をあるがままに描く自然主義を唱え『蒲団』を発表。他に『生』『妻』『縁』の三部作や『田舎教師』『時は過ぎゆく』などの代表作がある。
男鹿温泉
現在は穏やかな表情を見せる男鹿駅周辺(船川港)。景勝を拝むべく訪れた文人も多い
男鹿温泉
男鹿半島各所には菅江真澄が辿った「道」の案内板が置かれる
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