辰口温泉(たつのくちおんせん)の歴史秘話

温泉の歴史秘話

若かりし日の泉鏡花が文学の感性を育んだ温泉

 《叔母の家に急用があつて、故郷(ふるさと)から六里來た。此處(ここ)までは小松、動橋(いぶりばし)、大聖寺(だいしょうじ)、牛首(うしくび)等を經て、越前に通ずる加賀の本街道で、これから田圃路(たんぼみち)を一里半、開發(かいはつ)といふ山を一ツ越すと、辰の口と言つて温泉があつて、叔母なる人は其處(そこ)に居る。》

 明治の文豪・泉鏡花が、明治33年(1900)に発表した掌編小説『海の鳴る時』。始まりの一文にも登場する「辰の口」こと、現在の辰口温泉を舞台に物語は展開する。ヒロインは、三千石の大身の武士の令嬢として生まれながらも身を落とし、温泉宿を廻る按摩(あんま)の養女とならざるを得なかった、若く美しい薄幸の女性「お絹」。当時、鏡花の叔母(亡母の実家・中田家の未亡人)が辰口に芸者の置屋を営んでおり、その叔母や置屋の芸者たちがモデルになったと言われている。

 当時の辰口温泉では、加賀百万石の城下町・金沢が近くだったこともあり、明治の時流に翻弄された没落士族の娘たちの多くが芸者として働いていた。鏡花の叔母も、加賀藩前田家のお抱え能楽師の家に生まれながら同じく零落し、温泉街に生業を求めた一人。落ちぶれながらも、武士の娘らしく洗練された教養と作法を心得て生きていく彼女たちに、鏡花は深い憐憫とともに憧れを感じていたという。彼の作品に共通して貫かれている女性への感覚の鋭さは、こうした女性たちとの交流から生まれたにちがいない。

 若かりし日の泉鏡太郎(鏡花)は、たびたび辰口の叔母の元を訪れた。16歳の頃から坪内逍遥や尾崎紅葉らの小説を夢中になって読みふけるようになったが、鏡花は当時のことを「あまたの小説を耽読せり。大抵、貸本。見料は辰口鉱泉に住ひつつ、母なきわれをいとをしみし、叔母の小遣(こづかい)と、其の娘の小分の化粧料なり」と自筆年譜で振り返っている。本自体が高価なものであり、貸本屋を利用してもかなりのお金がかかったため、その賃料を辰口にいる叔母に出してもらっていたのだ。10歳で母と死に別れ、母性的な愛情に飢えていた鏡花のことを、叔母が特に可愛がっていたことが分かる。

 そして明治23年の夏、いつものように辰口の叔母宅に逗留した鏡花は、尾崎紅葉の小説『夏痩せ』を読んで深く感激。いよいよ創作への想いが断ちがたくなり、当地でいくつか習作をしたためた後、ついに文学で身を立てることを決意する。上京して、文学者としての人生を歩き始めてから10年。崇敬する尾崎紅葉の門人となり、『夜行巡査』『外科室』などの作品を発表した鏡花は、小説家としての評価を確立していく。そしてついに、彼の代表作『高野聖』と同じ年に、辰口を舞台とした『海の鳴る時』を発表したのだった。

 泉鏡花への評価が近年あらためて高まっているが、辰口は彼の感性を物心両面で育んだ場所としても注目されている。医療や衛生の知識に乏しい当時、不思議な開湯伝承に彩られ、人々の病や怪我を治癒する驚くべき効能をもった温泉に幾度も滞在した若い頃の経験が、怪異や伝奇的な作品も多い鏡花の作風に大きく影響を与えたという見方もある。

 現在、辰口の温泉広場には、先に引用した『海の鳴る時』の冒頭部分を刻んだ文学碑が建ち、「お絹」が働いていた温泉宿「松屋」は「まつさき」と名を変えて健在。鏡花が滞在した部屋も復元され、愛用の硯箱や初版本が展示されている。鏡花を文学の道へと導き、今も読み継がれる作品を生み出した“辰の口”の風情は、今も静かに息づいている。(文・/二木三介)

【人物紹介】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……・・・
■≪泉鏡花(いずみ きょうか)≫[1873〜1939年]
小説家・戯曲家。本名・鏡太郎。加賀百万石の城下町・金沢に生まれ育つ。小説家を志し上京、『金色夜叉』などで知られる尾崎紅葉の門人となる。初め『夜行巡査』『外科室』など観念小説と呼ばれる作品を発表。やがて『高野聖』『湯島詣』、戯曲『夜叉ヶ池』『天守物語』など、江戸文芸から深く影響をうけた独特の伝奇趣味と美意識に満ちた作品を残している。
辰口温泉
『海の鳴る時』に温泉宿「松屋」として登場する老舗旅館「まつさき」
辰口温泉
鏡花の作風にも影響を与えたと言われる辰口の名湯があふれる露天風呂
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