四万温泉(しまおんせん)の歴史秘話

温泉の歴史秘話

戦国動乱の中、真田昌幸が開いた湯治場

 四万温泉の発祥については諸説あるが、いずれも伝説の域を出ずハッキリしたことはわからない。その呼名も、『四万村湯』『四万の湯』『四万村温泉』と移り変わってきた。現在は一番奥から日向見(ひなたみ)、新湯、山口、温泉口と4つの地区を総称して『四万温泉』と呼び、このうち最も歴史が古いとされるのが日向見温泉である。ここには、永延3年(989)頃に源頼光の家臣・碓氷貞光が立ち寄った際、夢から覚めた早朝に発見したという『御夢想之湯』(共同浴場)がある。内部には2〜3人も入ればいっぱいの小さな浴槽があるのみだが、その源泉は今も地下からこんこんと湧き続けており、古き湯治場の面影を感じさせる造りは一見の価値がある。

 『御夢想之湯』の隣に建つ小さな堂が、国の重要文化財【日向見薬師堂】である。この堂は、慶長3年(1598)に伊勢国山田の住人・鹿目家貞によって建立された。棟札には、当地の支配者だった「沼田城主・真田信幸(信之)の武運長久を祈願しての事」と、記されている。真田氏は、戦乱によって荒れ果てた四万温泉の復興に尽力したが、とくに信之の父・昌幸は土地の人々の嘆願を聞き入れ、道路や橋梁を修復して交通の便を図り、宿と湯守まで配置した。四万温泉が実質的に湯治場として機能し始めたのは、真田昌幸の時代といえよう。

 それより少し前の時代になるが、関東管領の上杉憲政が、四万温泉に入湯した記録もある。1552年、憲政は北条氏康の侵攻によって居城・平井城を追われ、長尾景虎(上杉謙信)を頼って越後へ落ち延びた。1561年、憲政から上杉の家督と関東管領職を譲り受けた謙信は関東へ出陣する。上杉軍は相模小田原まで南下、旧領を回復してもらった憲政は、上野国に戻った。この戦の間、憲政はたびたび木の根峠を越えて四万温泉を訪れ、入湯している。1578年に謙信が没すると、その養子景勝と景虎が家督を争った(御館の乱)。憲政は景虎方についたために敗れて翌年殺されるが、この時に越後へ退去する道中でも四万に立ち寄って入湯している。武将としては少々情けない憲政だが、これ程までに温泉好きだった一面を見ると、多少の親近感が湧いてこなくもない。

 さて、四万温泉に最初の湯宿を開いたのは、田村甚五郎清正なる人物という。永禄6年(1563)、岩櫃城が武田信玄配下の真田幸隆(昌幸の父)に攻められて落城。城主の斎藤憲広(基国)は越後へ撤退した。それを助けて四万山中に留まり、追手を防いだのが家臣の田村甚五郎だった。甚五郎は越後へ同行せず、その後も四万に留まり、帰農して四万・山口に湯宿を開いた。その後、3代目の彦左衛門は分家して新湯に宿を開業した(現在の『四万たむら』)。真田昌幸が湯守に任命したのは、この彦左衛門といわれる。

 幕末から明治にかけ、火災や榛名山の噴火などで一時的に寂びれた四万温泉だったが、明治後半には道路の整備も行なわれ、新湯地区を中心に再び賑わった。昭和29年、全国に先駆けて国民保養温泉の指定を受け、今なお人気を保っているのは周知通りである。 (文・写真/上野哲弥)

【人物紹介】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……・・・
■≪真田昌幸(さなだ まさゆき)≫[1547〜1611年]
真田幸隆の三男。人質として武田家に出仕。兄二人が長篠の戦いで戦死したため真田家を継ぐ。武田家滅亡後独立し、上杉・北条・徳川などの強豪を相手によく渡り合った。関ヶ原の戦いでは長男の信之と袂をわかって西軍に属し、次男の幸村と共に徳川秀忠の西上を阻止。しかし石田方が敗北したため、高野山に蟄居させられ病没した。

■≪真田信之(さなだ のぶゆき)≫[1566〜1658年]
旧名・信幸(徳川方についた際改名)。真田昌幸の長男。松代藩初代藩主。弟に大坂夏の陣で奮戦後討死した真田幸村がいる。関ケ原の戦い後、父昌幸に代わって信州上田城を支配したが、元和8(1622)年に松代城(長野市松代町)に移り、以後明治まで続く松代藩の基礎をつくった。

■≪上杉憲政(うえすぎ のりまさ)≫[?〜1579年]
山内上杉氏。足利幕府より任命された最高級の役職・関東管領をつとめるが、北条や武田などの強豪勢力に翻弄される。河越野戦などで北条氏康に敗北、越後に逃れて長尾景虎(上杉謙信)を頼るが、その死後に起きた『御館の乱』において北条氏康の子・上杉景虎に味方したため、上杉景勝に謀殺された。
四万温泉
真田信之の武運長久を祈願して建てられた【日向見薬師堂】
四万温泉
四万温泉発祥の地で碓氷貞光が発見したという【御夢想の湯】
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