武雄温泉(たけおおんせん)の歴史秘話

温泉の歴史秘話

文禄の役で豊臣秀吉が発行した朱印状「温泉定書」

 明治になって鉄道が通るまで、佐賀県(肥前国)にある武雄温泉は「柄崎(塚崎)温泉」と呼ばれていた。その昔、神功皇后が太刀の「柄」で一突きすると温泉が湧き出てきたという伝説が地名の由来。史料の上からも、和銅6年(713)に朝廷の詔によって編まれた『肥前国風土記』杵島郡の条にも温泉の記録が残されており、長い歴史を物語る。そして、この温泉地を特に有名にしたのが、天正20年(文禄元年=1592)、時の天下人・豊臣秀吉の朝鮮出兵「文禄の役」である。

 天正18年(1590)、最後まで服従しなかった相模小田原の北条氏を倒して(小田原の役)、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、次なる野望として中国・明王朝の征服を夢想する。そして天正20年、「明へ行く道を朝鮮から借りる」という名目で、およそ16万の大軍を朝鮮半島に送り込み侵略を開始。秀吉は、玄界灘を臨む名護屋の地に本営となる城(肥前名護屋城)を構え、全国から多くの武将や将兵を駆り出して在陣させた。その時、兵士たちの戦陣の疲れを癒す場として指定したのが柄崎温泉だ。

 秀吉は、有馬温泉で湯治をしたり、小田原の役に際しても箱根で湯浴みをしたり、後の肥前の領主・鍋島直茂に湯浴みの道具を与えるなど、温泉好きで知られている。柄崎温泉を利用したのは、秀吉ならではの“はからい”ともいえたし、開湯伝説の主である神功皇后が記紀神話にある「三韓征伐」伝承ゆかりの人物でもあることから、それにあやかろうとする意図もあったのかもしれない。

 だが、文禄の役はそれまでの日本国内の戦いとは勝手が違い、苦戦を強いられた。豊臣日本軍は破竹の勢いで勝ち進んだものの、占領地を点と線でしか治められない。また、李氏朝鮮軍や地元民衆の反撃にもあって、戦線はしだいに膠着をみせるようになる。

 こうしたイライラや厭戦気分が伝播したのか、柄崎温泉でも兵士たちの無法な行為が目立つようになる。そこで、地元民が迷惑を被るような事態を憂慮した秀吉は、朱印状(赤い印鑑を押した公文書で法的な効力をもつ)で以下のような掟を出して取り締まりに出る(以下は読み下し文)。

        定 条々  肥前国柄崎温湯
      一 湯治の上下 地下人に対し 非分の
       儀申し懸け 猥〔みだ〕りの族これ有るに於い
       ては 曲事〔違法〕たるべきこと
      一 湯入の輩 宿賃人別五文宛毎日出す
       べきこと
      一 薪柴等これを取るべし 屋敷廻りそ
       の外御用木は一切伐るべからざること
      右条々 若し違犯の輩これ有るに於いて
      は 地下人として相拘え注進すべし 速
      やかに御成敗を加えられるものなり
       天正二十年六月十八日(秀吉朱印)

 秩序を乱して地元民に迷惑をかけることは違法である。入浴する者は宿賃1日につき5文を支払いなさい。屋敷廻り等の用木を伐採しないこと。違反者(違犯者)は速やかに処罰する。……入浴マナーを諭した掟ではあるが、処罰をともなうことでより厳しいものになっている。

 結局、この文禄の役、続く慶長の役(1597〜1598)と2度にわたった秀吉の朝鮮出兵は何の成果も得なかった。そればかりか、日朝両国に深い痛手を与えたうえ、脆弱な豊臣政権の基盤をも危うくし、後の豊臣家滅亡の遠因ともなってしまう。

 しかし、秀吉が発行した古文書「豊臣秀吉柄崎温泉定書」は、武雄市重要文化財として今でも武雄市が所蔵しており、柄崎温泉(現武雄温泉)の至宝として受け継がれている。
 秀吉の朱印状が残る温泉地。武雄温泉は、いわば秀吉が“お墨付き”を与えた温泉なのである。(文・/二木三介)

【人物紹介】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……・・・

■《豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)》[1536〜1598年]
安土桃山時代の武将。尾張(愛知県)の足軽の子として生まれる。初名・木下藤吉郎。織田信長に仕えて頭角を現し「羽柴秀吉」と名乗る。天下統一を目論む主君・信長が「本能寺の変」で急死すると、仇敵・明智光秀を討って信長の後継者となり、四国・九州・関東・奥羽を次々と平定。ついに天下統一を成し遂げた。この間、関白・太政大臣に就任して、朝廷より「豊臣」の姓を授かる。1598年、朝鮮出兵の最中に伏見城にて病没。
武雄温泉
江戸時代、鍋島藩主の専用風呂として造られた総大理石の「殿様湯」。
武雄温泉
温泉街のシンボル、朱塗りの楼門。辰野金吾博士設計、大正4年築。国指定重要文化財。
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