河津温泉郷湯ヶ野温泉(かわづおんせんきょうゆがのおんせん)の歴史秘話

温泉の歴史秘話

川端康成『伊豆の踊子』の清らかな雰囲気漂う湯ヶ野温泉

 伊豆・天城山中から流れる河津川沿いにいで湯が湧き出る河津温泉郷。その中のひとつ、山懐に深く抱かれた渓流に沿って鄙びた風情の温泉宿が建ち並ぶ湯ヶ野温泉は、日本の文学者として初めてノーベル文学賞を受賞した川端康成が若かりし日に訪れた地であり、彼の代表作『伊豆の踊子』の舞台としても有名だ。

 『伊豆の踊子』は、高等学校の学生である20歳(数え年)の主人公〈私〉と14歳の踊子との交流を描いた青春純文学。主人公の〈私〉は、旧制一高の学生で、大正7年(1918)10月30日から11月6日にかけて伊豆を旅して歩いた川端本人がモデルと言われている。作中で、〈私〉は温泉街を流して回る旅芸人の一行と出会い、やや大人びて見える14歳の〈踊子〉の少女に心を惹きつけられる。もう一度踊子に会いたくなった〈私〉は天城トンネルの近くの茶屋で旅芸人一行に追いつき、それから一行としばらく道連れになって湯ヶ野温泉に逗留する。
 温泉地周辺を巡れば、小説の中に描かれた風景にいくつも出合う事ができる。主人公の〈私〉が、旅芸人一行と〈踊子〉の様子が気になって眠れず、何度も入りなおした榧(かや)の木の浴場のある旅館は、川端が伊豆旅行で宿泊した実在の宿がモデル。川端が泊まった部屋も当時のまま残り、予約すればこの部屋に宿泊する事も可能だとか。近くには〈踊子〉のブロンズ像が建ち、石造りの旧天城トンネル(重要文化財)から湯ヶ島まで続く旧街道を歩けば、物語そのままに散策を楽しめる。そして、河津を代表する景勝地・河津七滝(かわづななたる)の初景滝には、「踊子と私」のブロンズ像。これら『伊豆の踊子』ゆかりのスポットを訪ねてこの地を訪れる人々は、今も絶える事がない。

 川端は、『雪国』など他の作品と異なり「『伊豆の踊り子』は私の作品としては珍しく、事実を追っている」と書き残している。宿の窓から「川向こうの共同湯」へ顔を覗かせると〈踊子〉が「若桐のように足のよく伸びた白い裸身」のまま手を振ってきた話や、宿の部屋で〈踊子〉が〈私〉と夜中まで五目並べに熱中するが、ふと我に返り恥ずかしがって立ち去る話、〈私〉が講談本を読み聞かせてあげると〈踊子〉が目を輝かせて聞き入っていた話…など、物語に登場する瑞々しく微笑ましいエピソードの数々は、おおむね実体験であろう。孤児として育ち、自己嫌悪と自己憐憫がからまった「孤児根性」が染みついていた〈私〉は、可憐で素直な〈踊子〉との交流によって心を解きほぐされてゆく。そんな〈私〉の姿は、15歳で天涯孤独の身となった川端自身の投影なのかもしれない。

 だが、いくら実体験に基づいて書かれた小説とはいえ、川端にとって、小説に出てくる人物をあれこれ詮索される事は本意ではなかったようだ。川端と旅芸人たちは下田の港で別れて以来再会することはなかったが、昭和41年(1966)、湯ヶ島温泉に『伊豆の踊子』の文学碑が建てられるにあたり、モデルとなった〈踊子〉の消息が捜索されることになる。作品ゆかりの地だけに留まらず、伊豆大島や甲府にまで及ぶ大規模な捜索が行なわれたが、結局、何の手がかりもなく分からずじまいに終わったという。これを受けて川端は「踊子のモデルやその縁者の跡もわからないのは、作者にむしろ稀な幸い」「小説のモデル探しなどは、作者にとっては苦いことで、許してもらいたく、見ぬふりをしてほしいもの」などと、世間の詮索に対する複雑な思いを述べている。

 踊子のモデルの消息はつかめないままに終わったが、湯ヶ島温泉を舞台にした『伊豆の踊子』が評判となると、温泉地周辺は小説ゆかりの地として一躍全国に知れ渡る事となった。『伊豆の踊子』のイメージが定着した故であろうか、今日に至るまで温泉は俗化されることなく、清らかな雰囲気を保ち続けている。
 その清らかさこぞが、〈私〉が旅の終わりに感じたような「清々しい満足」を今も訪れる人々に与える妙味になっている。(文・/二木三介)

【人物紹介】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……・・・

■《川端康成(かわばた やすなり)》[1899〜1972年]
大阪府出身の小説家。東京帝国大学卒。菊池寛に認められて文壇入りし、新感覚派の代表として活躍した。代表作に『伊豆の踊り子』『雪国』『古都』など。1968(昭和43)年、日本の作家として初めてノーベル文学賞を受賞した。

河津温泉郷湯ヶ野温泉
初景滝付近には「踊子と私」のブロンズ像が建ち、訪れる者を小説の世界へと誘う。
河津温泉郷湯ヶ野温泉
重要文化財の旧天城トンネル。『伊豆の踊子』に登場する代表的なスポットのひとつ。
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