吉奈温泉(よしなおんせん)の歴史秘話

温泉の歴史秘話

家康の側室・お万の方が子宝を授かった秘湯

井上靖の「しろばんば」、川端康成の「伊豆の踊り子」などの舞台となった天城湯ヶ島温泉郷。その深い山里に位置するのが、伊豆最古といわれる吉奈温泉だ。奈良時代の神亀元年(724年)、行基により発見された歴史を持つ古湯で、飲食店やレジャー施設の類は一切見当たらず、今なお秘境の湯治場らしい雰囲気を残している。泉質はアルカリ性単純温泉で、肌にやさしく良く温まるため、「子宝の湯」として知られる。現在は、昔からある『大湯』、30年ほど前に掘られた『花沢の湯』『煤垣の湯』と3本の源泉を町の組合が集中管理。3軒の宿と周辺40軒あまりの民家に供給されており、地元民は、この湯を古来から大切に守り通してきた。

この吉奈温泉が「子宝の湯」と呼ばれるのは、徳川家康の側室のひとり、お万の方に由来する(家康が若い頃側室に迎えた、結城秀康の母・小督局もお万というが、彼女とは別人)。お万は、上総(千葉)の大多喜城主・正木邦時の娘で、のちに伊豆河津の蔭山氏の養女となったため蔭山殿と呼ばれた。文禄2年(1593)ごろ、16〜17歳で家康の側室に迎えられたが、子宝に恵まれず、少女時代を過ごした伊豆の吉奈温泉へしばしば入湯に訪れた。熱心な日蓮宗信者でもあり、当時荒廃していた善名寺の再建にも尽力したといわれる。その甲斐あってか、26歳の頃に伏見で頼宣、頼房(のちにそれぞれ紀州大納言、水戸中納言となる)を産み、徳川家中でも重要な地位を占めるようになった。

お万の方が訪れた吉奈温泉には、現在3軒の宿がある。そのうちの1軒『東府屋』は、家康の拠点だった駿府城の東にある館として、いつからかそう名付けられ、現当主の城所さんで21代目となる。この宿には、お万が使っていたとされる長持(衣装箱)や調理用の鍋が伝わっており、ロビーに展示されている。敷地内の庭園には、彼女が湯治に訪れた際によく腰掛けたとされる『お万の方腰掛石』という、苔むした平らな岩が置かれている。また、宿の裏山には長い風雪に耐えてひっそりと佇む2体の『子持ち地蔵』があり、その霊験にあやかりたいと願う宿泊客が参拝に訪れる。もしかすると、お万もこの地蔵の前で手を合わせたかもしれない。

『東府屋』の玄関を入ると、番頭さんが太鼓を「ドォ〜ン」と打ち鳴らし、大勢の従業員が賑やかに出迎えてくれる。渓流沿いの露天風呂、離れ家、囲炉裏の間でいただく猪肉やキジ鍋などのご馳走は、昔ながらの湯宿の佇まいを存分に残す。創業は江戸中期だが、昭和33年の狩野川台風により、この地の建物はほとんどが倒壊し、現在建っている宿や周辺の民家は、その後に再建されたものである。茅葺き屋根や木造の建物も、瓦や鉄筋に姿を変えた。しかし、雄大な自然と今も豊富に湧き出る『子宝の湯』は、間違いなく遠い昔から存在していた。何百年も変わることのない風景が広がる吉奈の郷。小人数でそっと訪れてみたい秘湯である。(文・写真/上野哲弥)


【人物紹介】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……・・・
■≪お万の方(おまんのかた)≫ [1577〜1653年]
徳川家康が50歳位の時に迎えた側室。通称を蔭山殿、養珠院。上総大多喜・正木邦時の娘として生まれ、小田原北条氏滅亡の際、その支配下にあった父の勝浦城も落城。お万は母とともに伊豆へ逃れ、身を隠した。のち家康に迎えられ、その間にできた2人の息子(頼宣、頼房)は紀州、水戸徳川家の当主に。水戸黄門はお万の孫にあたる。

■≪徳川家康(とくがわ いえやす)≫ [1542〜1616年]
もとは三河(愛知県)の豪族・松平広忠の嫡男で、今川家の人質として不遇の少年時代を過ごす。独立後、織田信長と同盟して着実に勢力をのばし、豊臣政権下では五大老筆頭となる。秀吉死後は関ヶ原の戦い、大坂の陣に勝利し、名実ともに天下の覇者となる。徳川幕府初代将軍となり、江戸300年の礎を築いた。


吉奈温泉
お万も参拝したかもしれない? 宿裏山の子持ち地蔵
吉奈温泉
『東府屋』に保存されている、お万愛用の長持(衣装箱)
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