登別温泉(のぼりべつおんせん)の歴史秘話

温泉の歴史秘話

江戸時代の蝦夷地探検家も注目した“温泉川・ノボルベツ”

 長らく日本にとって異境の地であった「蝦夷地」(今の北海道・樺太・千島)。しかし、18世紀になってロシア船がたびたび南下して現れるようになると、鎖国政策をとっていた江戸幕府も警備と開発の必要に迫られ探検隊を派遣するようになる。その代表的な人物が、探検家の最上徳内と松浦武四郎。彼らは文化的・史料的にも貴重な記録や報告を残しており、その中に登別温泉についての興味深い記載がある。

 天明5年(1785)、幕府が初めて本格的に派遣した探検隊「蝦夷地巡検使」一行に選ばれたのが、最上徳内。当初は以前から蝦夷地の研究をしていた経世家・本多利明が参加の予定だったが、本多が弟子の徳内の才能を見込んで代わりに彼を推薦したのだという。最初は下働きの身分だった徳内も期待に応え、才気を充分に発揮。蝦夷地探索の功労者として高い評価を得ることになる。

 その成果として最上徳内が幕府に献上した報告書『蝦夷國風俗人情之沙汰』中巻に、「大河の事(島々の大川の事)」という一節がある。広大な蝦夷地にはイシカリ(石狩川)やトカチ(十勝川)といった内地の川に勝る大河が多く、交通や物流の動脈となっている……といった蝦夷地の河川事情の話の中に、なんと「川」として登別の温泉が紹介されている。

 《……東蝦夷地にホロベツ〔幌別〕といふ處あり。此場所の内にノボルベツ〔登別〕という小河を尋〔たずね〕るに、四、五里程山奥に硫黄山ありて、常に燒て消ゆる事なく、信州淺間山の如し。依て其邊〔そのあたり〕一圓に温泉湧出て谷々より落集り、一河になりて此ノボルベツに流れ來る也。此故に此河の水色白粉(おしろい)と紺悗鯀瀘たる如し。依て鼠色なり。小河なれども水勢急流ゆえに、常に濁りて水の淺深見ゆる事なし。》
 登別の山奥には浅間山のように噴煙を絶やさない火山(地獄谷)があり、周囲一帯から温泉が湧き出でて谷々から集まり川となって流れる。このために白と紺の絵の具を混ぜ合わせたように濁って川底が見えないくらいだ。──温泉ではなく「川」としての認識、各種の源泉が混じった濁流の描写に、1日約1万トンといわれるの圧倒的な湧出量と豊富な泉質が表れている。

 時代が下り江戸後期、松浦武四郎もまた蝦夷地の自然や風俗について膨大な記録を残した人物だ。彼の最初の蝦夷渡航は、幕末に近い弘化2年(1844)。後にまとめられた『蝦夷日誌』には、登別でのアイヌ人の湯治の様子や自然の風景が詳細に記されている。

 《ヌフルベツ〔登別〕、訳して温泉川と云也。……老木陰々として日を見るも難きが如く、……其嶮筆紙ニ尽くしがたし》(『蝦夷日誌』より。以下同じ)。昼なお暗い鬱蒼とした森、筆舌に尽くしがたい険しい山の中を、アイヌたちが峠を越え木の根にすがって崖を下り、わずかな平地に草木で編んだ仮屋を建てて湯治をする様子を描写。
 《其功能  金瘡〔切傷〕・打身・疥癬〔皮膚病〕・諸瘡を第一とす》《大ニ化俄〔怪我〕せし有りけるが、纔〔わずか〕七日の内に治せしと聞けり》。大怪我をした1人の若い青年が、数日のうちに治癒したエピソード。《奇とするは獣・鳥類ともに此処に身を過(し)て来り浴すること度々見侍りと》と、獣や鳥までもが湯浴みに来る効能の高さを紹介している。

 さらに、川沿いの露天風呂の少し先に《硫黄を煮たる釜》がある様子、源泉が湧く地獄谷の《常ニ黒焔立上れり…百千の雷が轟するごとく》、絶えざる噴煙と雷鳴のような轟音を鳴らす光景。そして、《巌石の間より温泉噴上る也》という間欠泉の噴出。
 そして、驚異的な自然の営みを目の当たりにして、《此〔登別温泉の〕山中の霊有ことは、其地ニ至らば心根物凄じくしてあやしく覚ゆるにてしらるべし》と結ぶ。登別の山中に湧き出る不思議な力に、神秘的なものを感じとったのであろう。

 最上徳内や松浦武四郎の時代、未開の蝦夷地を歩むことは命がけの冒険だった。彼らが残したのは、あくまで知られざる辺境の記録、そこで見た奇観だったのである。
 そんなノボルベツ(ヌフルベツ)こと登別にも、安政4年(1857)には道路が開通し湯治場として少しずつ整えられていく。この地が後に別府や草津のような一大温泉郷に発展するだろうとは、彼らも想像しなかったに違いない。徳内や武四郎が驚嘆した温泉の効能、源泉のある地獄谷や間欠泉などの特異な自然の営み、深遠なたたずまいのクッタラ湖などを、21世紀の今日、我々はより身近に手軽に楽しむことができるようになっている。(文/二木三介)

【人物紹介】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……・・・

■《最上徳内(もがみ とくない)》[1754〜1836年]
江戸時代中期の探検家。出羽国楯岡(現在の山形県村山市)の農家に生まれる。学を志して本田利明に入門し、算術(数学)・天文・測量・海外事情などを学ぶ。幕府の蝦夷地探検に加わり、現在の北海道を初め樺太・千島までを踏破。著書に『蝦夷草紙』『蝦夷國風俗人情之沙汰』など。アイヌの生活・言語に精通しており、彼らの保護を献策した。探検家としての功績は、交流のあったドイツ人医師シーボルトによって世界的にも広く紹介されている。

■《松浦武四郎(まつうら たけしろう)》[1818〜1888年]
幕末から明治初期の探検家。旅行作家・登山家・地理学者・博物学者など多彩な顔を持つ。伊勢国須川(現在の三重県松阪市)生まれ。若い頃から諸国を周遊し、各地の名山を登頂。蝦夷地探検も数次・広範にわたる。著書に『蝦夷日誌』など。現在の地名「北海道」の名付け親としても知られる。アイヌ文化にも精通し、北海道各地の地名をアイヌ語を生かして定めた。維新後は北海道開拓使の役人となったが、明治政府のアイヌ政策を批判して職を辞している。
登別温泉
湧き出る源泉が川となって流れる地獄谷の様子に、徳内も武四郎も感動を覚えた。
登別温泉
江戸時代には未開の地であった“ノボルベツ”も、今日では一大温泉郷に発展し賑わう。
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