湯の山温泉(ゆのやまおんせん)の歴史秘話

温泉の歴史秘話

幾度もの廃泉の危機を乗り越え受け継がれる山岳寺院の霊泉

 鈴鹿山脈の最高峰・御在所岳(ございしょだけ)の東中腹、三重県菰野(こもの)の地に湧く「湯の山温泉」は、幾度もの廃泉の危機を乗り越え、現代へと受け継がれてきた名湯だ。

 養老2年(718年)、仏僧・浄薫(じょうくん)の夢枕に立った薬師如来のお告げで開湯されたとされる古湯で、大同2年(807)に御在所岳の山中に三岳寺(さんがくじ)が開かれた時、天台密教の祖・伝教大師最澄がこの地で湯治をしたとの伝承が残る。この開湯伝説が物語るように霊泉として知られ、三岳寺の修行僧や御在所岳の山岳修験者が湯に浸かり、里人も湯治に訪れたという。

 しかし永禄11年(1568)、織田信長の伊勢侵攻により平穏な日々は破られる。三岳寺の寺領を支配下に置こうとした信長に対し、それを良しとしない三岳寺の僧侶たちは武器をとり、僧兵となって激しく抵抗。強大な織田軍を前に屈し、寺は焼き討ちにあい約750年の伝統が途絶え、温泉もまた廃泉となってしまう。

 江戸時代に入ると、歴史あるかつての三岳寺のいで湯を復興させようという機運が高まる。貞享3年(1668)、この地を治めた菰野藩の時の藩主・土方雄豊(ひじかた かつとよ)が幕府に願い出て、復活。三岳寺も、享保5年(1720)には伝教大師ゆかりの比叡山延暦寺の末寺として再興し、もとの寺地であった山奥よりも麓に建てられ温泉街の中心となる。
 泉質のよさ、三岳寺のご利益、近くを流れる三滝川渓谷の自然美、「湯の山大石」など渓流沿いの巨岩奇岩、名瀑「蒼滝」の壮麗さ、山に登れば遠く名古屋城の金鯱まで見通せたという景観のよさもあって、温泉は大いに栄えた。宿の数は8軒を数え、特に尾張藩の城下町・名古屋から多くの文人墨客が訪れたという。あの『忠臣蔵』で有名な大石内蔵助が、主君の仇を討つべく江戸へ下向する途中に逗留し、自分の名前と同じ「湯の山大石」に大いに感心したという逸話も残っている。

 ところが、この繁栄も天明の大飢饉(1782〜1788)による人々の疲弊、寛政の改革(1787〜1793)から来る度重なる倹約令(ぜいたく禁止令)のために、再び廃れ始める。天宝14年(1843)には温泉宿の主人たちが連名で菰野藩に倹約令を見逃してくれと嘆願し、嘉永3年(1850)には借金の申し入れまでしたが、幕末の安政5年(1858)、経営している旅館はとうとう「杉屋」1軒だけになってしまった。

 こうして衰微の極に追い込まれた湯の山温泉だったが、意外にも明治10年(1878)に九州で勃発した「西南戦争」が復活のきっかけになる。戦争終結後、激しい戦闘で負傷した陸軍名古屋鎮台の傷病兵の療養所に選ばれたのだ。「杉屋」と三岳寺、廃業していた別の旅館の合わせて3軒が宿舎に充てられた。鎮台本部のある名古屋から近いうえに、多くの傷病兵を1度に収容するには、廃泉同様だった状況がかえって都合良かったのである。
 「療養の成績は良好なりしと、山紫水明の風光のよさは各地より来れる傷病将卒によりて宣伝せられし」(『菰野町史』)。この地で療養した兵士たちにより、温泉の素晴らしさや周囲の自然の美しさが口コミで広まってゆく。これを受けて、地元の名士たちの尽力によって温泉の再興が図られる。菰野の市街地から温泉へ通じる道路が開削され、新しい温泉宿も完成。これらが功を奏し、明治15〜16年ごろの夏場には宿に収容しきれないほどの浴客が訪れるようになったという。

 復興後、開湯伝説にまつわる浄薫和尚をたたえた「湯本まつり」が始まり、昭和2年(1927)には東京帝国大学より田村剛博士を招いて菰野周辺の自然の調査と保護の指針を仰いでいる。戦後、「湯本まつり」は信長軍と戦った三岳寺の僧兵の勇気と正義感をたたえた「僧兵まつり」としてより盛大になり、御在所岳には頂上まで一気に登れるロープウエイも開通。歴史のうねりに翻弄された経験を持つからこそ、2度と温泉を衰退させないよう、自然と歴史が調和した温泉地の雰囲気を守る努力は、今も怠ることなく受け継がれている。
 現在は、大都市・名古屋の近郊にありながら豊かな自然が残り、山岳信仰の古く長い歴史を今に伝える“中京・関西の奥座敷”として、多くの湯客を迎え続けている。(文・/二木三介)
湯の山温泉
802年に三岳寺が開基されて以来、多くの修行僧を迎えてきた修験場・御在所岳。
湯の山温泉
御在所岳の頂上まで一気に昇れるロープウェイ。四季折々に変わりゆく景観を一望!
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