赤湯温泉(あかゆおんせん)の歴史秘話

温泉の歴史秘話

名君・上杉鷹山が人生の節目節目に訪れた景勝の温泉

 城下町・米沢から16kmほど北に位置する赤湯温泉。江戸時代には近隣百姓や病を癒す人々が集う湯治場として栄えた、歴史長き温泉地である。また、静養地としても親しまれ、米沢藩主・上杉家の温泉場として利用されたことでも有名だ。かつてこの地には上杉藩の別荘「赤湯御殿」が建ち、静養に訪れる藩主に使用されていた。明治時代になって御殿を譲り受けた温泉宿『上杉の御湯 御殿守』は今でも健在で、館内に藩政改革で名高い第9代藩主・上杉鷹山(治憲)や、彼の師である儒学者・細井平洲の書が展示されている。

 赤湯温泉が藩主静養の地に選ばれたのは、湯治に適した優れた泉質に加え、風光明媚な景勝地であったためでもある。赤湯には、「雲夢樓(うんむろう)」「鳥路坂(とりじざか)」「白龍湖(はくりゅうこ)」など、絶景と名高い8つの景勝地があり、総称して『赤湯八景』と呼ばれていた。上杉家歴代藩主の中でも特に赤湯がお気に入りだった上杉鷹山は、赤湯八景を題材に『丹泉八勝』(“丹泉”は赤湯の雅名)という絵を画家に命じて描かせ、文に通じた家臣に漢詩を添えさせたほど、この地に深い愛着を寄せている。

 上杉鷹山の名を知らない人でも、彼の名言「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」は、一度は耳にしたことがあるだろう。優れた改革者として後世に大きな影響を与え、アメリカ大統領であったJ・F・ケネディも、尊敬する日本人として彼の名前を挙げたほどの、「名君」と名高き人物である。

 九州高鍋藩2万石の藩主・秋月種美の次男として生まれた鷹山は、遠い血縁にあたり、戦国の名将・上杉謙信を祖とする名門米沢藩15万石から請われて養子となり家督を継いだ。大出世と言いたいところだが、実は当時の米沢藩は絶望的なほどに財政が窮乏しており、養父の上杉重定はなす術なく、幕府に領地を返上しようかと考えるまで追いつめられていた。

 明和4年(1767)、新しく藩主となった鷹山は、衰微した米沢藩を立て直すべく敢然と藩政改革に着手した。贅沢を戒めた倹約の発令と実践、藩校を創設しての人材育成。また自ら率先して鍬をふるい、藩士には田畑の開墾を、領民には養蚕や食用の鯉の養殖など殖産興業を奨励した。結果、1人の藩士のリストラもなく、これらの改革が最終的に実を結んだことで、鷹山は江戸時代屈指の名君と讃えられることになる。

 記録をみると興味深いことに、彼の人生の節目節目、大きな事件の前後に赤湯温泉を訪れていることが目立つ。

 安永2年(1773)6月には、名門意識が抜けきらず、鷹山の改革政策が気に入らない門閥重臣7人が鷹山を米沢城内の一室に軟禁して改革の中止を訴える「七家騒動」が勃発。生涯最大のピンチだったが、鷹山はこの圧力に屈することなく、要求をはねつけ、養父・上杉重定の支持を後ろ盾に7人を厳しく罰した。騒動が収束した直後の9月、赤湯に滞在している。

 一連の改革はすべて順風満帆に運んだわけではなく、最初は家臣や領民の心をつかむことができず、天明5年(1785)には一度頓挫している。引責辞任する形で、この年の2月に鷹山は35歳の若さで藩主の座を重定の実子・治広に譲って隠居した。江戸で所定の手続きをすませ、米沢に帰国した後の8月に赤湯御殿で湯治。

 鷹山が隠居したのは、藩主よりも制約の少ない藩主後見役の立場から改革を指導するためでもあった。寛政2年(1790)2月の赤湯湯治から帰った後、藩の厳しい財政状況を包み隠さず公開した上で、全藩士に対して改革案を募る。この時に寄せられた多くの意見を背景に、翌寛政3年(1791)に再び改革に乗り出した(寛三の改革)。藩再建政策がようやく軌道に乗るようになったのは、この2度目の改革からである。

 実際に米沢藩がそれまでに累積した借金を完済し、健全財政が実現したのは、鷹山の死の翌年、文政6年(1823)のことである。それだけに彼の一生は藩政改革に費やしたものだったといえよう。自ら質素な生活を課した鷹山にとっては、赤湯への湯治は数少ない贅沢だった。それは単なる遊興だったというより、日々の大変な重圧から一時逃れ、羽を休め、挫折しかかった心を癒し、あるいは次の機会への対策を練り、英気を養う貴重な時間であったかもしれない。

 歴史あるいで湯に身を浸し、赤湯八景の景勝を望みながら、その折々、鷹山の胸に去来する思いは何であったろうか。後世に名を残す名君を生み出す原動力となった湯と景勝は、現在も多くの人々を癒し、明日への希望を与え続けている。(文・/二木三介)

【人物紹介】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……・・・
■《上杉鷹山(うえすぎ ようざん)》[1751〜1822年]
九州の小藩 秋月家の次男として生まれる。米沢藩上杉家の養子となり、家督を相続。名は治憲(はるのり)、52歳の時に「鷹山」と号した。領地返上寸前だった米沢藩の窮乏財政を一連の藩政改革によって立ち直るきっかけを作り、稀代の名君と讃えられるようになる。彼の治績は明治の教育家 内村鑑三によって海外にも広く紹介され、後のアメリカ大統領J・F・ケネディも、尊敬する日本人として鷹山の名前を上げている。
赤湯温泉
温泉街周辺には美しい田園風景が広がる。安らぎに満ちた雰囲気は今も昔も変わらない。
赤湯温泉
かつて上杉家別荘だった湯宿「上杉の御湯 御殿守」。館内には鷹山の書なども展示。
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