湯田温泉(ゆだおんせん)の歴史秘話

温泉の歴史秘話

幕末乱世、高杉晋作が密かに「時が来た」と刻んだ楓の木

 山口市の中心部近くに広がる湯田温泉は、今も昔も盛り場として人々で賑わう温泉街。幕末の世、長州藩が維新回天の表舞台に名乗り出た時代もまた、多くの志士たちが集っては酒を飲み、国家を案じ熱い議論を重ねたという。

 その温泉街の一角に、堂々たる風格を見せて門を構える「松田屋ホテル」が建つ。ホテル内の浴槽「維新の湯」は、幕末風雲を舞台に活躍した高杉晋作、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通、坂本龍馬、伊藤博文、大村益次郎、山県有朋、井上馨、三条実美など錚々たるメンバーが湯を浴びたことでも有名。長州と薩摩が手を結び、倒幕へと突き進むための密会も、このホテル内でたびたび行われたという。
 現在、館内には当時の貴重な資料が展示されている「維新資料室」を併設。その中に、1本の楓の木が保存されている。「高杉晋作 憂国の楓」と名づけられたその木には、次の文字が刻まれている。

 「盡国家之秋在焉」(国家ニ盡<ツク>スノトキナリ)。

 1863年(文久3)、八月十八日の政変が起こり、尊皇攘夷の急先鋒だった長州藩は京都から追放される。その後、藩内は尊皇倒幕を唱える急進派vs幕府に従おうとする恭順派の対立で混乱を極め、1864年(元治元)には井上馨が恭順派の一派に急襲され瀕死の重傷を負い、「松田屋」に運び込まれるという事件も起こった。また、第一次長州征伐の際には恭順派が藩政を牛耳り幕府へ従順。急進派の重鎮が政権から一掃される。
 これを受けて、高杉晋作は下関にて挙兵を決意する。「今から長州男児の肝っ玉をお目にかけます」と、自ら創設した奇兵隊と急進派を率いて出兵。藩政をひっくり返し、長州藩は一気に尊皇倒幕へと傾倒する。1866年(慶応2)の第二次長州征伐では、海軍総督として幕府艦隊を駆逐。長州藩の事実上の勝利(実際は長州藩優勢で休戦)を見届けた後、1867年(慶応3)肺結核のため27歳の短い生涯を閉じた。同年、大政奉還。250年超にわたる江戸幕府は幕を閉じ、明治維新を経て日本は新しい国家へと生まれ変わっていく。

 高杉が、「松田屋」の玄関横に植えられていた楓の木に「盡国家之秋在焉」と刻んだのは、八月十八日の政変の直後だと言われている。しかし、この文字が発見されたは大正時代に入ってから。誰にも気づかれることなく、ひっそりと“国家のために尽す時がきた”と刻んだ高杉の決意は、どのようなものだったのだろうか。
 「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と評された高杉が、命を燃やした晩年の4年間。師の吉田松蔭が革命家としての素質を認めた通り、長州藩そして国家を一気に維新革命へと導いていく役割の一端を担ったとも言える。京都の政変で国家が動乱に突入することを知り、今が自らの生き際と見極めた時。“時が来た”と刻んだ7文字の言葉に、彼の身震いするほどの興奮がうかがえる。

 「松田屋ホテル」の浴槽「維新の湯」は、今も現役で利用されている。他にも、幕末維新にまつわる史跡が数多く残されており、訪れるファンが後を絶たないという。
 高杉をはじめ、国と唄と酒を愛した幕末の志士たち。ネオンが煌く温泉街の雑踏を出歩いていると、どこからか彼らの歌声や笑い声が聞こえてくるような気がする。

【人物紹介】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……・・・

■《高杉晋作(たかすぎ しんさく)》[1839〜1867年]
1839年(天保10)8月20日、長門国萩城下菊屋横丁(現山口県萩市)生まれ。1857年、吉田松蔭が主宰する「松下村塾」に入塾し、その他の塾生たちと共に幕末長州藩の尊皇倒幕志士として活躍する。志願兵による奇兵隊を創設したことでも有名。4カ国連合艦隊による下関砲撃や幕府による長州征伐など藩政の重要な場面でも重責を果たし、第2次長州征伐の際には長州藩の海軍総督に命じられ幕府海軍を駆逐。直後の1867年(慶応3)4月14日、下関桜山(現山口県下関市)にて肺結核のため死去。享年27歳。辞世の句は「おもしろき こともなき世を おもしろく」。死後建てられた顕彰碑には、伊藤博文による「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」で始まる銘文が刻まれている。
湯田温泉
湯田温泉街。今も昔も、夜にはネオンが煌く盛り場として賑わい、幕末の志士も集った。
湯田温泉
1863年、萩より移された藩庁の正門。その後、長州の幕末・維新の中心となった。
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