下部温泉(しもべおんせん)の歴史秘話

温泉の歴史秘話

武田信玄の免状が残る「本物」の湯治場

“武田信玄の隠し湯”と呼ばれる温泉場は数多く存在するが、実際に信玄が入湯したのかどうか不明な所が多い。しかし、下部温泉が“隠し湯”として名高く、本家本元といわれるのには理由がある。それは、信玄の直筆・花押入りの「免許状」という証拠があるからだ(写真左)。

信玄の免状が残されているのは、温泉街奥の橋を渡った突き当たりにある『源泉館』。古くから多くの宿泊客が長く滞在する現役の湯治宿だ。玄関には武田晴信(信玄)をはじめ、父・信虎、穴山信君(梅雪)の花押入りの書状が展示されている。その内容は「土地・浴場の免許状」であり、「入浴」「下部」という文字に加え、地主である佐野氏に宛てたものであることも、はっきり認められる。また、川中島合戦により負傷した多くの兵の命を救ったことに対する馬場美濃守(信春)の感謝状や、武田家滅亡後にこの地を支配した徳川家による免状も現存している。

ただ下部以外の隠し湯、たとえば武田軍の本拠地・甲府には積翠寺温泉があるが、それらが偽物とは言いきれない。前線で負傷した数千人もの将兵を治療させるには、下部温泉だけでは間に合わなかったという見方もできるからである。

本館の隣に建つ、古びたコンクリートビルが『神泉』という別館で、その地下に「信玄かくし湯」と呼ばれる混浴の岩風呂がある(日帰り入浴可)。ここが、信玄はじめ武田軍の将兵が傷を癒したであろう湯治場だ。広さ15畳ほどの大岩盤が、そのまま浴槽に利用され、毎分200〜400リットルもの冷泉が下の岩盤からブクブクと自然湧出する。源泉の湯温は約30度だから、身を浸すとやや冷たいが、そのまま入っていると体が徐々に温まってくる。40度近くに加熱された小さな浴槽も併設され、その上がり湯と冷たい源泉を交互に入浴するのが習い。のぼせることもなく、長湯には最適な入浴法といえるから、「敵は、武田軍の回復の早さに恐れをなした」という逸話も、ただの伝説ではないように思えてくる。

源泉館の本館と別館の間には赤い鳥居がある。この石段を登っていくと、下部の湯権現ともいわれる熊野神社がある(写真右)。天長7年(830)、甲斐の国主だった藤原正信が、下部温泉で療養した際に、信仰する紀州熊野権現にあやかって建立したといわれ、下部温泉の歴史もそこから始まっている。現在の社殿は約400年前、武田二十四将の一人・穴山信君によって再建された。本殿には天正3年(1575)8月、社殿への落書きを禁じた梅雪の署名入りの制札も残されている。再建の折りに、源泉館の先祖が土地を提供したというエピソードから、武田家とのつながりをさらに深く伺い知ることができる。今なお、傷病やリュウマチなどを癒しに訪れる人が絶えない下部温泉。最強の騎馬軍団を影で支えた保養地の面影が色濃く残されている。(文・写真/上野哲弥)

【人物紹介】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……・・・
■≪馬場信春(ばば のぶはる)≫[1515?〜1575年]
美濃守。信房ともいう。武田家の譜代家老衆の一人で、武勇・知略とも優れ武田二十四将、四名臣に数えられる。誅絶されていた馬場伊豆守虎貞の跡を継いで馬場氏を名乗った。信濃攻略で軍功を重ね、"鬼美濃"こと原虎胤の後を受けて美濃守を名乗る。長篠で討死するまで戦場に出ること70数回に及んだが、かすり傷1つ負わなかったという。

■≪穴山信君(あなやま のぶきみ)≫[1541?〜1582年]
甲斐源氏武田氏の一族・穴山信友の長男。号は梅雪斎。信玄、勝頼に仕え、合戦では主に本陣を守備した。駿河江尻城主となるが、信玄の没後は勝頼を見限り家康に降伏した。本能寺の変の際、家康と共に堺にいたが帰路の途中、山城国宇治田原で一揆に襲われて落命。
下部温泉
源泉館に残る信玄直筆の免状(複製)
下部温泉
温泉街の奥地にある熊野神社は、武田氏最盛期に再建された
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