上林温泉(かんばやしおんせん)の歴史秘話

温泉の歴史秘話

壺井栄が上林温泉より発信した平和への願い『二十四の瞳』

 「湯田中・渋温泉郷」と総称される長野県山ノ内町に湧く温泉の中でも、山奥に位置する上林温泉。志賀高原をひかえた豊かな自然を求め、夏目漱石や志賀直哉、与謝野鉄幹・晶子夫妻といった文士、町田曲江や菊池契月、寺崎廣業といった画人、あるいは皇太子時代の昭和天皇や高松宮といった皇族、東郷平八郎のような軍人、華族・政財官界の重鎮など、実に多彩な顔ぶれが訪れている。
 現在、実業家・渋沢家の洋館を移築して志賀高原ゆかりの文化人の資料を展示した「志賀山文庫」をはじめ、各種の美術館・記念館が揃っているのも、文化の香りがする上林温泉ならでは。湯田中や渋にはない個性を引き出している。

 中でも、繁華な温泉街のない山林の静かな環境は創作に励むのにちょうど良く、長く滞在する作家・画家も多かったという。女流作家・壺井栄もその1人で、「山の湯」という旅館を定宿にして執筆作業に打ち込んだ。彼女の代名詞にもなっている名作『二十四の瞳』も、実はこの地で執筆されたもの。
 初版本の「あとがき」にも、《今年もまた、ひと夏を信州の山の宿〔上林温泉〕にこもって、私〔壺井〕はこの物語を書きおえました。〔…〕いつも楽しい物語をかきたいと思いつづけている私は、こんどもまた、つらいかなしい物語をかいてしまいました。くりかえし私は、戦争は人類に不幸をしかもたらさないということを強調せずにはいられなかったのです。》と記されている。

 作品が発表された昭和27年(1952)、日本は独立を回復したものの、抱き合わせで日米安保条約が発効。2年前に勃発した朝鮮戦争はなお止まず、東西冷戦はいよいよ明らかになっていく。さらに、「血のメーデー事件」や破防法反対闘争など、キナ臭さが漂う世相が広まりつつあった。
 特に、日本の再軍備化へと傾く風潮は強く、東京にある保安隊(自衛隊の前身)の本部で時の吉田茂首相が隊員たちに向かって「国軍の基礎たれ」と訓示したという出来事も起こった。執筆中にこのニュースを聞いた壺井は、あとがきに《私は机の前にすわっていることに苦痛を感じて落ちつけなかったことを思いだします。》とも書いている。終戦から10年も経たない中、悲惨な戦争の記憶はまったく生々しいものだった。にも関わらず、再び戦火に巻き込まれかねない世の流れには、不安と懸念を表明せずにはいられなかったのである。

 しかし、作品では感傷におちいることなく、瀬戸内海の島の分校に赴任した若い女性教師と12人の児童らとの心の交流、戦前の社会の貧しさと戦争に翻弄される人々の人生を、ユーモラスに理性的に描いた。社会の動きを激しく直に感じる東京から遠く離れて、上林温泉に腰を落ちつけたからこそ、完成させることができたと言っても過言ではないだろう。
 ゆえに、『二十四の瞳』は時代を超えた価値を放つ名作となる。昭和27年の2月から11月にかけてキリスト教系の雑誌に連載された同作は、同年12月に単行本として刊行。2年後、木下恵介監督・高峰秀子主演で映画化されるとこれも大ヒットし、不朽の名作として人々に読み継がれていく。

 壺井栄の定宿であった「山の湯」は、今も健在。『二十四の瞳』が執筆された部屋も残っており、彼女が書いた色紙も大切に保管されている。上林温泉の閑静なたたずまいも、当時と少しも変わりはない。原稿に向かいながら彼女は、この温泉地のように静かで平穏な世界が続くことを、切に願っていたのかもしれない。(文・/二木三介)

【人物紹介】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……・・・

■《壺井栄(つぼい さかえ)》[1899〜1967年]
小説家・童話作家。香川県小豆島生まれ。生家が破産する中、高等小学校卒業後には村の郵便局や役場に勤めて生活を支える。大正14年(1925)に上京、同郷の詩人・壺井繁治と結婚。近所に住んでいた林芙美子や平林たい子らに触発され、昭和13年(1938)『大根の葉』でデビュー。主な作品に『二十四の瞳』『暦』『柿の木のある家』『母のない子とこのない母と』など。
上林温泉
壺井栄もまた、山林の温泉街のような静かで平穏な世界が続くことを願ったのだろう。
上林温泉
上林温泉を訪れた多くの文化人ゆかりの資料を展示する「志賀山文庫」。
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