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山代温泉の歴史秘話
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明智光秀の入湯秘話と加賀前田藩主愛用の浴場跡
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北陸の名湯・山代温泉は、神亀2年(725)に行基が湯で傷口を癒すカラスを発見した伝説に始まる。平安時代の中期に、花山法皇の命により薬王院温泉寺に七堂伽藍が建立されると、山代温泉の名が全国的に広まったという。そして戦国時代には、あの明智光秀が入湯している。「明智軍記」によれば、光秀が山代温泉を訪れたのは永禄8年(1565)年5月上旬。できもの、傷の治療が目的だったらしい。光秀は当時、越前の朝倉義景に仕えており、称念寺(福井県丸岡町)の園阿上人とともに水路で山代へ入り、前述の温泉寺に宿泊した。 しかし、それから10日後に13代将軍・足利義輝が松永久秀らの謀反によって自害し、弟の義昭(後の15代将軍)が越前へ落ち延びてきたという報告が入る。光秀はその夜、人の世のはかなさを想って園阿上人と飲み明かし、翌日越前へ戻ったという。光秀については、足利義昭の側近として織田信長に仕えた後のことはよく知られているが、それ以前の記録が非常に少ないため、この山代入湯は貴重なエピソードといえる。 秀吉の天下統一後、加賀には前田利家が入城し「加賀百万石」として栄える。そして、領内の保養地である山代温泉には代々の藩主も訪れた。利家の四男で3代藩主の前田利常は、当地の治水工事に力を注ぐなど温泉街を大いに発展させた。利常は山代をいたく気に入り、正保4年(1647)から3年連続で湯治に訪れている。また、利常の息子で初代大聖寺藩主(加賀の支藩)の前田利治も、父と同様に山代温泉を愛した。自分専用の湯壷を造らせ番人を置いて管理させたほどであるから、非公式でも度々湯治に訪れたことだろう。 その藩主専用の入湯場だが、「加賀の本陣」といわれる老舗旅館『山下家』の玄関脇にあったという。今は錦鯉の泳ぐ小さな池となっており、「加賀藩主・前田公の御入湯場跡」と墨書きされた看板が立つのみである。この『山下家』の創業は文化4年(1807)だから、当時はここに小さな湯屋が建っていたに過ぎなかった。ただ、源泉はすぐ隣にある「源泉公園」から昔も今も変わることなく涌き続けており、山代の温泉街でもとくに歴史的風格を漂わせる旅館である。 文化末年(1817)の頃、山代にはすでに19軒の湯宿があった、との記録がある。総湯(共同浴場)をぐるりと囲むようにして宿が建ち町並みが造られていったため、総湯周辺を「湯の曲輪(ゆのがわ)」と呼ぶようになった。かつて華やかな頃は、紅柄格子の中から湯女が客を誘う色街だったという。風流を好んだ松尾芭蕉が、派手な山代温泉を避けて通ったという逸話も残るほどだ。(文・写真/上野哲弥) 【人物紹介】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……・・・ ■≪明智光秀(あけち みつひで)≫[1528?〜1582年] 戦国、安土桃山時代の武将。清和源氏の流れである土岐一族の出自とされているが、出自や前半生の経歴は不明。15代将軍・足利義昭を織田信長に引き合せ、上洛の手助けをする。信長に仕えてからは次々に功を立て、近江坂本城主、丹波亀山城主となる。その後、京都本能寺で信長に謀反し自害に追い込むが、11日後の山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れる。 ■≪前田利常(まえだ としつね)≫[1593〜1658年] 初代加賀藩主・前田利家の四男。妻は徳川秀忠の娘・珠。1605年、兄・利長の隠居にともない、わずか13歳で前田家3代目当主となる。大坂冬の陣には12000の兵で参戦も、真田幸村の前に苦戦。大損害を出すが、大勢の決した夏の陣で多くの戦功を挙げる。戦後は城下の整備や辰巳用水など金沢の発展に力を尽くした。 |
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加賀の歴史と自然の恵みが息づく北陸屈指の古湯
約1300年前、僧行基が傷口を癒すカラスを発見したことが始まりと伝わる北陸屈指の古湯。「カラスの湯」と呼ばれ、与謝野晶子や泉鏡花といった文人をはじめ多くの人たちに愛されてきた。加賀地方では、共同浴場のことを「総湯」と呼ぶとか。総湯「浴殿」の周りは「湯の曲輪(がわ)」と呼ばれ、今も昔ながらの雰囲気を残す。「浴殿」を囲むように軒を連ねる老舗旅館に紅殻格子、漆塗りの柱や灯篭。さらに、「浴殿」から伸びる商店街には土産物屋などが建ち並び温泉情緒を高める。また、昭和20年以前から栽培されている打木赤皮甘栗カボチャや金沢一本太ネギなどの加賀野菜も楽しみの1つ。加賀に息づく歴史と自然の恵みをゆっくり味わう。
●住所:加賀市山代温泉 ●立ち寄り共同浴場数:0件