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雲仙温泉歴史秘話

雲仙の大地がもたらす乳白色の硫黄泉

約30の地獄から絶えず吹き上げる噴煙と硫黄の香り。あふれ出る強酸性の湯に、キリシタン殉教の舞台となった哀しい歴史が残る「雲仙地獄」。その湯けむりの向こう、雲仙岳をはじめとする1,000メートル級の山々に囲まれて、標高700メートルの地に湧くのが雲仙温泉だ。日本初の国立公園に指定された温泉保養地は、約350年の歴史を誇る古湯。温泉神社を中心に、味のある宿や共同浴場が温泉街を形成する。こんこんと湧き出る乳白色のお湯と硫黄の香りは温泉情緒たっぷり。湯上がりには、名物温泉玉子や島原の乱で天草四郎が考案したという郷土料理「具雑煮(ぐぞうに)」も欠かせない。自然豊かな高原で、自慢の名湯と雲仙の味覚が旅の夜を温かく包み込む。

住所:南高来郡小浜町雲仙 立ち寄り共同浴場数:3件


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雲仙温泉の歴史秘話

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キリシタン“地獄責め”の歴史と、島原藩松平家ゆかりの老舗宿

雲仙はかつて「温泉」と記され、それが訛って「うんぜん」と呼ばれていた。現在の表記「雲仙」に改められたのは、昭和9年に日本初の国立公園に指定されてからのことである。大宝元年(701)、山岳信仰の対象として、行基によって温泉山満明寺が建立されたが、その頃には現在同様、白濁の温泉が湧いていたらしい。源泉地は絶えず濛々と煙が立ち上り、約90度もの熱湯が噴き出す「雲仙地獄」と呼ばれているが、徳川時代にはキリシタン弾圧の舞台となった悲劇の地であり、まさに「地獄」としてその名が知られていた。

徳川幕府のキリスト禁教令により、多くのキリシタンは捕らえられて長崎に収容され、様々な拷問を受けた。そのひとつが「雲仙の地獄責め」であった。「地獄責め」とは、磔にした信者に熱湯を柄杓で浴びせかけ、棄教を迫るという刑である。拷問は昼間行なわれ、夜は信者を温泉の熱気の通る狭い小屋に閉じ込めた。「三日間耐え得る者は甚だ稀」という、この残酷な刑を考えたのは地元の島原藩主・松倉重政だった。この弾圧は寛永4年(1627)から数年続き、雲仙では33人のキリシタンが殉教したという。現在、源泉地の一角には、地獄を見下ろすように十字架の形をしたキリシタン殉教碑が建っており、献花が絶えない。

松倉氏は悪政によって【島原の乱】(1637年)を引き起こし、その罪を負って改易。後任として遠江浜松の高力(こうりき)忠房が島原に入り、藩主となった。忠房は乱後の民心安定に力を注ぎ、城下や寺社の復興に努める。そして承応2年(1653)年には、雲仙に初めての共同浴場『延暦湯』を開いた。この浴場は、高力氏に従って浜松から島原に移り住んだ、家臣の加藤善左衛門が管理・運営にあたる。やがて高力氏も改易となり、島原城には松平忠房が入ったが、善左衛門は引き続いて共同浴場の管理を担当。寛文12年(1672)には「湯守役」に任命された。

善左衛門は、元禄8年(1695)に湯治客用の旅館を創業した。これが雲仙最古の温泉宿『湯元ホテル』のはじまりであり、現当主の加藤元昭氏で14代目を数える。幾度も改装を繰り返しているため、現在は近代的な造りの大型ホテルになっているが、玄関先には「湯守役」に任ぜられたことを表す温泉由来碑が建っており、歴史の深みを感じさせる。館内に展示された藩政時代の貨幣や、大正時代の宿泊料金表なども一見の価値がある。大正9年には、ここに歌人の吉井勇が宿泊した。「雲仙の 湯守りの宿にひと夜寝て 歌なとおもふ 旅つかれかも」彼の詠んだこの歌碑は、温泉由来碑の脇に並んで建っている。また、『まぼろしの邪馬台国』などの著書で知られる作家・宮崎康平も一時期この宿に滞在し、執筆活動をするなど、文人ゆかりの宿としても知られている。

加藤善左衛門が旅館を開業してのち、雲仙は日本屈指の温泉地として、ケンベルやシーボルトなどの外国人学者に評価され、幕末には欧米にも名を知られるほどの観光地に成長していく。その幕末に雲仙を訪れた有名人に、吉田松陰がいる。彼の残した「西遊日記」によれば、嘉永3年(1850)に長崎・平戸へ遊学した松陰は、12月4日から9日まで島原城下に滞在。その間の12月7日に雲仙岳を訪問している。当日の天候は晴れ、地元の老人に道案内を頼み、一乗院(現・満明寺)を見学後『小地獄』に入湯。高台から島原城下の風景を望んだ。そして「この地では多く豆腐をつくる。往復十里、帰りついた時、日はすっかり暮れていた」と結んでいる。松陰が入湯した『小地獄』とは、善左衛門の『延暦湯』から南へ1kmほど離れた共同浴場である。ここには1731年に開業した共同浴場が、当時の姿に近い形で現存している。松陰は、雲仙の歴史や白く濁った湯をどう感じたのだろうか。入湯についての感想がないのが残念だ。(文・写真/上野哲弥)

【人物紹介】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……・・・
■≪松平忠房(まつだいら ただふさ)≫[1619〜1700年]
三河吉田(愛知県豊橋市)生まれ。祖父の松平家忠は徳川家康に仕えた。深溝(ふこうず)城を本拠としたことから、深溝松平家と呼ばれる。寛永9年(1632)に吉田2万9千石を相続。寛文9年(1669)将軍家綱に命じられ、7万石に加増されて島原藩主となった。雲仙の加藤善左衛門に「湯守役」を命じ、温泉街の発展に尽力。82歳のとき江戸で病没。

■≪吉井勇(よしい いさむ)≫[1886〜1960年]
歌人、劇作家。鹿児島藩士の家に生れる。明治38年、東京新詩社に入社後「明星」に短歌を発表する。北原白秋、木下杢太郎とともに「パンの会」を結成。耽美派の一翼として多彩に活動する。明治42年、石川啄木らと「スバル」を創刊。『酒ほがひ』『午後三時』『蝦蟆鉄拐』等、多数の著作がある。

■≪吉田松陰(よしだ しょういん)≫[1830〜1859年]
長門国・萩松本村で長州藩下級武士の子として生まれる。幼少より日本の伝統的学問を修め、後に洋学を学ぶ。佐久間象山に傾倒、幕末日本の情況を憂慮し、外国の事情を知ることが急務と考え、ロシア、アメリカへの密航を企図するも果たせず。しかし、門下から高杉晋作、伊藤博文、山県有朋ら明治維新に活躍する人物を多く輩出した。
雲仙温泉
湯元ホテルの前に建つ、湯守と温泉発祥の地を表す碑
雲仙温泉
かつて温泉地で使用されていた、肥前島原藩発行の藩札
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